采女城
采女城(うねめ-じょう)は三重県四日市市釆女町にある標高70m比高50mほどの平山城で別名は北山城とも言う。
最初の築城としては諸説あるが、平安時代末期の文治年間(1185年~1189年)に後藤基秀が築いたとも、鎌倉時代に入って1260年、後藤基秀(後藤伊勢守基秀)が住むようになって采女山(北山)に城郭を築いたともされる。
南北朝時代に後藤氏は播磨守護で置塩城の赤松円心に従ったため、後藤基明(後藤三郎左衛門尉基明)のとき播磨・春日山城に移った播磨・後藤氏からは戦国時代に後藤又兵衛(後藤基次)を輩出している。
戦国時代となって永禄10年(1567年)に稲葉山城を落とした織田信長は、逃走した斎藤龍興を追って伊勢へ侵攻し、桑名に本陣を置くと北勢四十八家の諸城を攻略開始。
采女城主・後藤藤勝は関氏・蒲生氏と連携して戦ったが、1568年(永禄11年)、滝川一益によって落城し後藤藤勝(後藤采女正藤勝)は討死した。
妻(夫人)と娘・千奈美姫は一の郭(主郭)の深井戸に身を投げたと伝わる。
古井戸からは夜な夜な女のすすり泣きが聞こえてくるとか、馬のいななきや、女人の悲鳴が細く尾を引くといった言い伝えもあるようだ。
采女城の見学だが南側の登城口から主郭(本丸)までは10分ほどとの事。
交通アクセス
四日市あすなろう鉄道・内部線の終点である内部駅(うつべえき)から1.4km、徒歩約20分の距離。
駐車場はないが、南側の足見川に架かる橋付近の路肩は広くなっている。
当方のオリジナル地図「名古屋・北陸」方面では登城口をポイントしている。
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