日向・松山城
日向・松山城(まつやまじょう)は、鹿児島県志布志市松山町新橋にある標高159m、比高55mの山城です。
松尾城とも呼ばれますが、志布志にも松尾城があります。
しかし日向国にて一般的に知られる松尾城は、土持親成で知られる宮崎県延岡市の松尾城のほうが有名であるため、混同しないよう注意が必要です。
最初の築城は、1188年に平知重(平武蔵守知重)の子である、平重頼(平隠岐守重頼)が築城したとされます。
しかし、この2人のことに関しては不詳で、1413年に松山城(松尾城)が築かれたとする説もあります。
ただし、平知重は、大納言・平頼盛(たいらのよりもり)の子です。
平氏滅亡時に平頼盛は後白河法皇のもとに隠れていますが、平頼盛の母・池禅尼 (いけのぜんに) が、平清盛に頼んで、源頼朝らの命を救った経緯もあったことから、平重頼(平隠岐守重頼)がこの地を与えられたと考えるのが妥当かも知れません。
室町時代となり、1441年に嘉吉の乱で、将軍・足利義政を暗殺させた赤松満祐が朝敵となり、子の赤松教康は島津氏を頼って志布志へ逃れて松山に蟄居します。
その曾孫である赤松肥前守義季(よしすえ)は、島津義久に仕えました。
恐らくは日向・松山城主であったと推測できます。
戦国時代となり、1558年、飫肥城主・島津忠親(島津豊後守忠親)は、一族の平山忠智(平山越後守忠智)を松山城に配置しています。
1559年、肝付兼続が侵攻すると、松尾城の守備の平山忠智・平山久武・平山久次の親子3人が討死し、以後は肝付氏の支配となりました。
この圧迫を受けて、島津忠親は、島津義弘を養子に迎えた訳です。
1577年、島津義久の直轄地となると、市来家親が地頭として入りました。
1599年、伊集院忠真の反乱の際に、松山城は柏原公盛が守備しており、伊集院勢が鉄砲を駆使して攻めましたが、木脇喜兵衛の鉄砲隊によって反撃したところ、伊集院勢は撤退したとあります。
道の駅・松山に隣接する城山総合公園が松山城跡となります。
太平洋戦争末期には、アメリカ軍の志布志湾上陸に備えて、日本陸軍の第86師団積兵団・司令部が置かれていたと言います。
終戦後の昭和20年の初秋に、中将だった芳仲和太郎・師団長が「戦争に負けても日本(神州)は亡びない」という意味の「神州不滅の碑」を建立しました。
なお、この司令部の防御陣地構築中に終戦を迎えた言うこともあり、本丸、二ノ丸、五兵衛城、八幡城の4つがあった松山城は大部分が破壊されていて、辛うじて二の丸だけが残っており、展望台があります。
約1000本もの桜があり、桜の名所としても有名で、開花時期の夜はライトアップもされており、夜桜を楽しむこともできます。
桜の見頃は3月下旬~4月上旬です。
近くにある道の駅「松山」にもありますが、松山城へは運動公園の駐車場に止めたほうが近いです。
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