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尾附城の歴史解説~朝春播磨守が守備?山中衆・高橋氏の居城

尾附城

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尾附城

尾附城(おづくじょう)は群馬県多野郡神流町尾附にある山城
標高552m、比高は40mほどだろうか?
神流川の上流部はすぐに上野村なのだが、ココは神流町(かんなまち)になるらしく、日本で最初に恐竜足跡の化石が発見されたことで知られる。
尾附集落に隣接しているため、尾附郷の領主の城であったのだろう。

尾附城

戦国時代には1566年に武田信玄が国峰城の小幡信貞に神流川流域の制圧を命じた。
このとき、小幡信貞は家来の土屋等綱を尾附郷へ派遣したようだ。

土屋等綱はもともと下仁田の武将であったが、武田家が進攻すると武田勢に従い組み込まれた模様。


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このとき、尾附郷の高橋氏は「館」を明け渡してて、川を隔てた地に移ったとある。
すなわち無血開城・降伏した模様だが「城」ではなく「館」とあるので、尾附館と呼んでも良いだろう。
確かに、尾附城の西側にある国道沿いのバス停は「高橋」バス停となっているので納得だ。
南牧村の笹ノ平城(笹の平城)に高橋重行(高橋左近助重行)がいるため、同じ高橋一族とも?推測される。

その後、土屋等綱が山に尾附城として築城したと考えて良いかもしれない。

土屋氏と言うと、発祥は相模・土屋城で、もとは中村党である。
武田信玄の家臣としては土屋貞綱(つちや さだつな) が有名だが、この土屋貞綱はもともと今川義元の家臣・岡部氏一族で、1568年に武田勢に降伏し、1569年に土屋姓を与えられた。
そのため、尾附城を接収した土屋等綱は、それよりちょっと前からの武田家臣と言える。


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土屋等綱(土屋上総守等綱)は、もともと下仁田の馬山城主だったようでのち夕影城に入ったとも考えられる。

尾附城の話に戻すと、上野国郡村誌九では、国峰城の小幡信真の配下である朝春播磨守が砦を構えたともある。

尾附城

1581年、朝春播磨守は、山中衆を率いて播磨峠に陣を張り、武州三山村(小鹿野町)で北条勢と戦ったと伝わる。
しかし、この朝春氏に関しては調べても全くわからなかった。
<注釈> 山中衆は(さんちゅう-しゅう)と読む。

ただし、その頃、小幡信真は北条領である秩父の日尾城(小鹿野町)攻撃しようとしたともあるため、その一環として志賀坂への入口でもある尾附城を強化したと言えるだろう。

土屋高久(土屋山城守高久)

注目すべきは、多野郡神流町平原・平原バス停から山側にある延命寺(無住で荒れている模様)の裏に土屋山城守高久の墓(没年1593年)があると言う事だ。
土屋高久(土屋山城守高久)はなんと武田信勝を保護して上州に逃れたとある。
武田信勝は武田勝頼の嫡男で、武田氏が滅亡した1582年に、天目山の戦いに敗れて自害したと言うのが歴史上の認識だ。

しかし、下仁田町史が調査した市川氏の古文書によると、身代わりの者が自刃し、武田信勝じたいは土屋山城守高久に連れられて砥沢城の市川貞吉(市川四郎兵衛和泉守貞吉)のところに逃れたと言う。
確かに、武田信玄が1561年に所領安堵の朱印状を出した相手に市川和泉守殿とあり、1567年に提出した生島足島神社起請文に南牧衆・市川四郎兵衛貞吉の名が見られるので、市川貞吉(市川和泉守貞吉)は実在した武将であろう。
また、武田信玄は影武者もいたとされるので、武田信勝を逃がすため身代わりを立てたと言う話もまんざらではない。
忠臣・土屋昌恒が晴れ晴れしく散った事でも有名であるが、武田信勝を介錯したのも土屋昌恒とされる。
ただし、土屋昌恒は金子氏なので、下仁田の土屋高久と血縁関係などがあったとは考えにくいほか、本当に武田信勝が生きていれば、たくさんの武田旧臣が支援したはずでもあるが、それが見受けられないため、武田信勝が生きていたと信じるのには疑問が生じてしまう。

面白いのは、明智光秀が逃れている武田信勝の事を知っていて、市川四郎兵衛和泉守貞吉宛に密書を送り「織田信長を討ち取るべし」と連絡をしたと言うのである。
1582年3月11日に武田氏が滅び、明智光秀が本能寺の変を起こしたのは6月2日の事である。(下仁田町史)
市川左兵衛門信義は、武田信勝の子だとも家系図にあるようだ。
土屋高久(土屋山城守高久)は1593年に死去したと言う事で、初め登戸に居て尾附に移り、尾附城からほど近い中里に墓があると言う事になる。
と言う事は、関東に徳川家康が入った際に、尾附城の近くは土屋高久(土屋山城守高久)が領しており晩年を過ごしたとも考えられる。

なお、武田信勝は豊臣秀頼に味方して大坂夏の陣にて討死し、南牧村大日方笹ノ平に墓があると言う。
子とされる市川信義は下仁田町大桑原にて余生を送ったとの事。

土屋等綱(土屋上総守等綱)と土屋高久(土屋山城守高久)の関係は不明だが、親子か兄弟・一族と言う事は間違いないだろう。

尾附城と千石墻の砦の案内板が、近くの宿泊施設「ヴィラせせらぎ」さんの駐車場(国道側)に設置されていた。

尾附城と千石墻の砦の案内板

交通アクセス

場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
国道299号は比較的交通量も少なく走行しやすいが、カーブもあるので注意願いたい。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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