神西城 (じんざいじょう)は、島根県出雲市東神西町にある山城で、別名は出雲・竹生城、出雲・高倉城と言います。
正式名称は、龍王山竹生城になるようです。
那売佐神社のすぐ北にある標高101mの高倉山にあり、比高は90mほどで、登城路も整備されているようです。
最初の築城は不明ですが、武蔵七党の小野氏を祖とする小野高通が、鎌倉時代の1223年に地頭職に任ぜられ、出雲国神門郡の神西に下向したとあります。
出雲国神門郡の西部にあたるところから、この地は「神西」と呼ばれたようです。
神西氏の祖である小野高通に関しては、武蔵七党が出自ではありますが、系譜が明確ではないため、横山党、猪俣党など、細かな系統は不明です。
後鳥羽上皇による承久の変で武功でも挙げたのでしょうか?
執権・北条義時より領地を与えられ、神西に下向した小野高通は、貞応三年に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請しました。
また、菩提寺の十楽寺(じゅうらくじ)も、小野高通が鎌倉にあった常楽寺を移転させたとあり、神西家十二代の合祀塔があるようです。
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出雲守護・佐々木京極氏が衰退し、出雲守護代の尼子氏が台頭すると、約350年間勢力を張っていた神西城の神西氏も従ったようで、尼子十旗の城となりました。
しかし、神西元通 (じんざい-もとみち)は、1563年に、毛利元就に寝返りました。
1560年、尼子晴久が急死すると、毛利元就の攻勢により、尼子義久は家中をまとめられず、尼子十旗の本城常光・三沢為清・三刀屋久扶・赤穴久清・湯原春綱などが、毛利家に寝返ります。
石見銀山を抑える石見・山吹城の本城常光が寝返ったのは大きく、出雲・高瀬城の米原綱寛も、1562年に毛利氏へ下っていました。
ただし、その本城常光が毛利勢によって謀殺されると、神西元通は、尼子氏に帰順し、月山富田城の籠城にも加わり、大手門で奮戦しました。
1566年に、月山富田城が落城して、尼子氏が滅亡すると、神西元通は、再び、毛利家に従いましたが、本領安堵は得られず、伯耆・末吉城に移っています。
その伯耆・末吉城には、毛利家の目付役として中原就久(中原善左衛門)と小寺元武(小寺佐渡守)が在城とあるので、信頼もされていなかったようです。
1569年(永禄12年)、山中幸盛(山中鹿之助)が、尼子勝久を擁立して尼子再興軍を起こします。
その後、山中幸盛から僧が派遣されると、神西元通(神西三郎左衛門)は尼子再興軍に加わることを決心しました。
1571年6月、伯耆・末吉城にて碁の強豪である林阿弥を招いた碁会を催します。
この時、毛利家目付役の中原就久を暗殺しました。(暗殺した時期などは諸説あり)
そのため、2ヶ月後、毛利勢の攻撃を受けて、末吉城での戦いとなり、敗れた神西元通は、山中幸盛と共に京へと逃れています。
京に逃れた尼子一党は織田信長を頼り、羽柴秀吉の配下となります。
そして、1577年、羽柴秀吉の毛利攻めの先鋒となって、毛利との最前線である播磨・上月城に入りました。
これに対して、毛利勢は6万のたいぐんで上月城を包囲したため、籠城戦となります。
羽柴秀吉も旧援軍を派遣して、上月城の隣りの高倉山に陣を張りましたが、兵力に劣る羽柴秀吉は上月城への補給もできず、別所長治の三木城攻めへと転進しました。
救援の望みを絶たれた尼子再興軍は、尼子一族の自害と引き換えに城兵を助命し、上月城を開城することになった。
この時、神西元通(神西三郎左衛門元通)も、主君・尼子勝久と共に自刃したようで、神西元通の供養塔が、今でも、上月城に残っています。
神西元通は、上月城の本丸先端部にて、毛利軍に見えるように腹を十文字に掻き切って60余年の生涯を終えたと言います。
一説では、尼子勝久と一族の助命を願って、毛利勢からの返答が来る前に、進んで自刃したとも言われています。
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神西元通の子と推測される神西又三郎は、小早川隆景に仕え、神西景通と称しました。
小早川隆景の死後は毛利家に仕えて、文禄・慶長の役にも従軍し、神西景通は慶長15年(1610年)に没しています。
神西城への交通アクセス・行き方ですが、那売佐神社(なめさ-じんじゃ)の入口に5台ほどの駐車スペースがあり、本丸まで約10分と、一番近いようです。
電車の場合、JR山陰本線・出雲神西駅から十楽寺の登城口を経由して、山頂本丸まで徒歩約30分との事です。
・尼子勝久の歴史解説
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