井出沢城(いでさわ-じょう)は、東京都町田市本町田にある丘城または平城になり、現在、菅原神社があります。
別名は、井手沢柵、井手ノ沢塁、殿ノ城、井手沢城とも書きます。
古来より、多摩川の分倍河原を渡り、鎌倉へと繋がる「鎌倉街道」と、登戸方面からの「鶴川街道」が合流する交通の要衝にあります。
ちなわち、北関東から軍勢が、鎌倉を目指すとなると、通過する確率が高いところが、町田「井出の沢」となります。
井出沢城の最初の築城など、詳細はよくわかっていません。
しかし、正安三年(1301年)に、鎌倉時代の僧・沙弥明空の歌謡集宴曲に「井手の澤」の名称が出てきますので、鎌倉時代~南北朝時代には、砦のような感じで機能していたものと推測できます。
1333年、分倍河原の戦いで、鎌倉勢・北条泰家の大軍を破った、新田義貞らも、町田を駆けて、鎌倉に進軍したことでしょう。
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鎌倉幕府が滅亡したあと、最後の北条家当主(得宗)である北条高時の遺児・北条時行が、信濃で蜂起して、北条氏の残党らと鎌倉へ進撃します。
当時、鎌倉を任されていたのは、足利尊氏の弟・足利直義で、足利勢は、ここ井出沢城に布陣して、鎌倉街道を南下する北条時行らを迎撃しました。
そして、建武二年(1335年)7月22日「井出の沢の戦い」となりました。
足利直義は敗れて、鎌倉に敗走し、足利尊氏の子で幼い足利義詮や、後醍醐天皇の皇子・成良親王らと、鎌倉から西へと逃亡しました。
この時の7月23日、土牢に幽閉されていた護良親王は、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されました。
淵辺義博の領地は、境川を越えた淵辺義博居館となり、そんなに遠くはありません。
なお、殿ノ城とも推測される、屋敷があったと言う場所が、北側の恩田川の川岸にありますが、井出沢城との関連性も含めて、よくわかっていません。
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丘城か、平城であるかは、中心の屋敷(本丸)があった場所で、決まるものと存じます。
しかし、具体的に発掘調査などが行われた訳ではないようですので、本丸の位置などは、よくわかっていない模様です。
現地の状況から見て、防衛主体の城であれば、高所に本丸を置いたと思いますので、丘城と言えるでしょう。
しかし、菅原神社の石段を下がったところが、周囲より若干「窪んでいる低地」のが、とても気になります。
その崖下には「御神水」と呼ばれる湧水があったようですので、その低地に屋敷を構えると、周囲からは、見えにくいところとなります。
まるで、とても小さな鎌倉がそこにあるような感じです。
そのため、もし、菅原神社の境内が井出沢城跡だったのならば、水の手がある低地が本丸で、上部の高所は見張り台的な役割をもっていたような感じを受けます。
そのため、当方の記事では、大変失礼ながら、あえて、平城の可能性も指摘させて頂きました。
まぁ、戦国時代にも使用していたら、間違いなく丘城(崖端城)です。
菅原神社は、地元の武将・大沢氏によって、江戸時代の初期に創建された模様です。
その菅原神社になってしまったためか、城跡としての遺構は皆無と言えます。
境内にも、井出の沢合戦の石碑はありますが、城跡の案内板などはありません。
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井出沢城への交通アクセス・行き方ですが、電車の場合、小田急電鉄の「町田駅」北口から、徒歩約30分です。
玉川学園駅から歩いても、約30分くらいとなりますが、歩くのであれば、町田駅からのほうが、わかりやすいと存じます。
クルマの場合、菅原神社の参拝用駐車場を利用できますのすので、当方のオリジナル地図にて、駐車場入口をポイントしておきます。
見学所要時間は15分ほどになります。
ここまできたら、町田駅近くの「泰巖歴史美術館」も大変お勧めです。
・井出の沢の戦い【中先代の乱と町田・菅原神社】
・殿ノ城 青木屋敷(青木二郎屋敷) 青木三郎屋敷
・小山田城の訪問記(東京都町田市の大泉寺)~自然豊かな多摩の伝承地
・小野路城(結道城)と鎌倉古道の訪問記と写真集
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・井出の沢の戦い【中先代の乱と町田・菅原神社】殿ノ城と青木屋敷
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