栃木県

不摩城(下野・秋葉城) 島津氏の城跡

不摩城(下野・秋葉城)

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不摩城(ふまじょう)は、栃木県栃木市鍋山にある、三つの郭からなる連郭式の山城です。
別名は部屋子城、下野・秋葉城(あきばじょう)となりますが、地元では秋葉城のほうが通じるようです。
登城口は、東麓にある秋葉神社の入口で、本丸に秋葉神社があるため、秋葉城とも呼ばれるようです。
尾根続きの先端部、比高90mほどの場所が城跡となります。
下記写真の場所に、小さな石碑もありました。(当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。)

不摩城

今回、7月上旬で、熱中症防止の観点からと、駐車場が無いため、登城まではしませんでしたが、登山道はある程度ハッキリ道が続いているようです。
最初の築城は、平安時代末期にこの付近(戸矢子保)を領した足利有綱(戸矢子有綱)ともされ、下野・唐沢山城の支城として、蓬莱山に不摩城を築いたとありますが、平安時代に何個も山城が必要だったかは疑問です。
子に初代の佐野基綱(足利基綱)がいます。

戸矢子保の領地は足利有綱(戸矢子有綱)の正室・戸矢子尼、そして、娘・加賀局が引き継ぎましたが、その間、木村信綱、木村政綱が城主であったともされます。


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その後、1260年頃、島津忠佐が知行しました。
島津氏と言うと鹿児島・薩摩のイメージが強いと存じますが、鎌倉御家人として相模の鎌倉に住んでいました。
初代の惟宗忠久は1189年の奥州合戦で武功を挙げ、越前国守護に加えて恩賞として大隅国・薩摩国・日向国の守護職となっています。
4ヶ国は異例のことですが、この時、惟宗忠久はわずか11才くらいでもあったことから、源頼朝の隠し子で、惟宗広言の養子になっていたと言う説もあります。
そして、当時では日本最大の荘園「島津荘」を本貫と定めて、島津忠久と称したのが島津氏の始まりです。
その跡を継いだ2代・島津忠時の子である島津忠佐(島津大隅守盛忠)が、加賀局の2番目の夫となり、下野の島津氏が誕生したと言う事になります。
※加賀局の最初の夫は狩野四郎左衛門尉と言う不詳の武将。(工藤氏の一族である狩野左衛門四郎景茂の事か?)
一説では、足利有綱(戸矢子有綱)の娘が、島津忠久の母・丹後の局(丹後内侍)であったともされ、その丹後内侍は源頼朝と北条政子の嫡男・源頼家の乳母を務めていたと言う事になります。

「嶋津弥三郎代田村忠長軍忠状」(嶋津家文書、1368年9月)では、鎌倉公方足利基氏が宇都宮氏綱へ兵を向けた際に「八月四日御付吹上之御陣仁之時属御手」とあるので、嶋津弥三郎なる武将が、下野・吹上城近くで、鎌倉公方の軍に合流したことが伺えます。

室町時代になると、永徳2年(1382年)、島津政忠を頼って、下野・祇園城から小山若犬丸(小山義政の嫡男)が逃げてきたため粕尾城にて籠城し、下野・小山城攻めに活躍したともあります。

また、室町時代に、梅沢城を築いた梅沢隼人は、本拠を移したとも考えられ、下野・島津氏は改名したのかも知れません。


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なお、東側にある山には、下野・藤沢城(鍋山城)があり、戦国時代には活用されたようです。

このあとは下野・粟野城に向かいました。

下野・藤沢城(鍋山城)
下野・吹上城 膝附宗長の城跡
下野・粟野城 斉藤秀隆討死の激戦地
下野・諏訪山城 宇都宮勢1万5000に攻められる
お城に行くのに便利なオリジナルGoogleマップ


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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