京都新城(きょうとしんじょう)は、京都府京都市中京区にある平城跡です。
なお、京都に新しく築いた城と言う事で、一般的には京都新城と言いますが、確定した名称はありません。
そのため、別名としては、太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷、新城、秀頼卿御城、京の城、豊臣氏第
北政所屋敷、高台院屋敷、三本木屋敷など、色々な名前があります。
築城者は豊臣秀吉で、関白・豊臣秀次を粛清し、破却した聚楽第(じゅらくだい)の代わりに、関白が住む新城として、戦国時代の1597年1月末頃から、工事が始まりました。
工事には主に関東の諸大名が動員されています。
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ところが、4月には場所が変更となり、京都御所(禁裏)の南東にある地に築かれました。
豊臣秀吉の子である豊臣秀頼のために築かれたと言う事になり、1597年9月に豊臣秀吉と豊臣秀頼が、京都新城に移っています。
しかし、豊臣氏が滞在した期間は短く、翌年の1598年8月に、豊臣秀吉は伏見城にて死去。
遺言により、豊臣秀頼は防御性に優れている大坂城へ入りました。
その後、淀殿とも対立した高台院(おね、ねね)が、大坂城から京に移った先が、この京都新城であったため、以後は、高台院屋敷と呼ばれました。
1600年、石田三成が挙兵すると、京都新城が徳川勢に使われるの嫌い、防御施設を破却し、一部の石垣も壊したようです。
その後も、高台院(北政所)が生活する場となっていますが、規模は縮小されたようで、1602年には二条城の建設のため、一部の建物なども移築された模様です。
1623年、高台院が死去すると、屋敷には甥の木下利房(木下宮内少輔利房)が住んだとされます。
禁中並公家諸法度の制定など、江戸幕府の圧迫に対する不満から、1626年、後水尾天皇が譲位の意向を示します。
この時、江戸幕府は、譲位した天皇の御所である仙洞御所(せんとうごしょ)と大宮御所の場所を、京都新城の地と定めため、屋敷などは解体され、仙洞御所が建設されて、城としては無くなりました。
ただし、阿古瀬淵(あこせがふち)は豊臣家邸宅庭園の遺構と伝わります。
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京都市埋蔵文化財研究所が、消防設備工事のため、2020年に発掘調査を行ったところ、破却された石垣や、金箔(きんぱく)瓦も出土しました。
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