滋賀県

近江・伊庭城 伊庭貞隆 主家の六角氏をも上回った実力者

近江・伊庭城

近江・伊庭城(いば-じょう)は、近江国神崎郡伊庭邑、現在の滋賀県東近江市伊庭町にある平城です。
昔は琵琶湖の湖岸にあったと推測されるため、水堀も駆使されている館跡となっています。
相模・伊庭城もありますので、便宜上、近江・伊庭城と記載させて頂きます。
最初の築城は、建久年間(1189年~1198年)で、観音寺城主・佐々木行実の4男である佐々木高実が、伊庭荘を得て居館を築いたとされます。





この近江・佐々木氏は、宇多天皇の子孫で、佐々木定綱が源頼朝の挙兵から従って戦功をあげており、近江だけでなく、長門、石見、隠岐4ヶ国の守護を務めていました。
この伊庭荘は朝廷の御領でしたが、1156年に、崇徳上皇が源為義を召し抱えた際に、伊庭荘を与えたことが平家物語にあります。
その源為義の嫡男が、鎌倉幕府を開いた源頼朝ですので、源氏にとって大事な領地を佐々木氏は得ていたとも言えます。

琵琶湖海運の拠点でもある伊庭は、集落内を縦横に走る細い水路が巡らされており、いわば「水郷」の趣が残っている歴史ある街です。

近江・伊庭城

鎌倉幕府が滅んだあとは、観音寺城の六角氏頼の配下に伊庭氏の名が見受けられ、佐々木六角氏の重臣として君臨しています。
水運の経済力からも、伊庭貞隆の時には、本家筋の佐々木六角氏と同格の勢力にまで発展しました。

伊庭貞隆

伊庭貞隆(いば-さだたか)は、生没年は不明ですが、六角氏の筆頭重臣であり、近江守護代にも任命されていた実力者です。

1458年、室町幕府は、近江守護に六角政堯(ろっかく-まさたか)を任命しましたが、1460年に六角政堯は、伊庭貞隆の父である守護代・伊庭満隆の子(伊庭貞隆の兄弟と推定)を殺害しています。
どうやら、伊庭氏の出しゃばりを嫌ったようです。
そのため、室町幕府は六角高頼を六角氏(近江・佐々木氏)の12代当主に充て、伊庭貞隆は六角高頼をよく補佐しました。

近江・伊庭城

伊庭貞隆は、1465年に室町幕府8代将軍・足利義政の次男である足利義尚の誕生祝いのため上洛も果たして、幕府に接近しています。
そうこうしているうちに、戦国の世となり、1467年から「応仁の乱」となりました。

六角氏は、山名宗全らに味方したため、近江では京極氏と対立しています。
また、多賀高忠と従兄・六角政堯は、観音寺城を攻めたりもしたようです。
1475年に、六角高頼は、京極政経・多賀高忠らに勝利していますので、詳しくはわかりませんが、伊庭氏も活躍したことでしょう。





しかし、六角高頼は公家や寺社を統制し、寺社領・奉公衆の所領や荘園を、家臣らに分配したため、1487年、9代将軍・足利義尚は、六角討伐軍として2万の軍勢を送りました。(長享・延徳の乱)
六角高頼と伊庭貞隆は甲賀の山中に籠って、山内政綱と共に国人衆を統率しながら、ゲリラ戦で抵抗したと言います。
そのため、合戦は長引き、1489年に、足利義尚が死去したことで、六角征伐は中止となって、六角高頼は近江守護に復帰し、伊庭貞隆も所領に戻ったようです。
ただし、横領した領地を国人衆が朝廷に返還しなかったため、1491年、10代将軍・足利義材によって第2次六角征伐となりました。

近江・伊庭城

山内政綱は、大津園城寺にて斯波義寛や赤松政則らによって殺害され、体制を維持できなくった六角高頼は、伊勢へ逃亡しています。
しかし、1493年、明応の政変に乗じて、六角高頼は、観音寺城にいた六角虎千代(六角政堯の養子)を追放、近江守護になっていた山内就綱(山内政綱の子)にも勝利して、1495年、近江守護に復帰を果たしています。
それらの合戦で伊庭氏の動向は不明ですが、伊庭貞隆は六角勢の旗頭として、美濃守護・土岐成頼の後継を争った「船田の戦い」では、援軍として美濃に遠征し、石丸利光に協力したようです。
ただし、もはや、伊庭貞隆の軍事力は、六角高頼を上回っていたようで、危険した高頼は「伊庭連々不義の子細共候間」として貞隆の排除を決断しました。

1502年10月、六角高頼は、伊庭領に侵攻し、敗れた伊庭貞隆は、琵琶湖を渡って湖西に逃れています。

近江・伊庭城

そして、伊庭貞隆は、管領・細川政元の支援を受けて赤沢朝経?と共に反撃に転じました。
青地城、馬淵城、永原城を攻略すると、六角高頼は観音寺城を捨てて、蒲生貞秀の音羽城へ落ち延びたとされています。
ただし、権力争いがあったのは事実ですが、実際に合戦は無かったとする説もあります。
細川政元が仲介して、六角高頼と伊庭貞隆は和解しました。
ところが、1507年に、管領・細川政元が暗殺され、11代将軍・足利義澄が近江・朽木谷の秀隣寺へ逃れます。
ただし、六角高頼は、将軍復帰を狙った、足利義稙(10代将軍)を支援するようになったため、またしても、伊庭貞隆と意見が対立したようです。
そのため、1514年、伊庭氏はまたしも伊庭城を追われたようで、伊庭貞隆・伊庭貞説の父子は湖北に逃れました。
そして、近江・小谷城の浅井亮政の協力を得ると、六角高頼を再び音羽城へ敗走させています。
この戦いは6年にも及んだようで、この乱は、1520年、水茎岡山城が陥落したことで終結したとあります。
そして、伊庭氏も没落し、その直後に六角高頼も死去しました。

このように、六角高頼・細川高国の連合軍によって、水茎岡山城が落城して伊庭氏は没落しました。
と言う事は、落城したころには、かなり、伊庭氏の勢力は弱まっていて、水茎岡山城にいたと考えるのが妥当でしょう。

なお、近畿内兵乱記では、1514年2月に、伊庭貞説の父子が没落したと記されています。





話が飛びますが、江戸時代の平和な世の中がやてきますと、1697年には、旗本・三枝守相が7000石にて伊庭領主となりました。
そのため、伊庭陣屋が築かれていますが、その陣屋跡が、伊庭城の遺構としてメインの場所になります。

伊庭城(伊庭陣屋)への交通アクセス・行き方ですが、電車の場合、JR能登川駅から2.3km、歩いて30分以上の距離となります。
なお、古い集落ですので、道路は結構狭いです。
大きな車ですと、角を曲がるのが困難な場所もあります。
車で入って行く場合には、カーナビどおりではなく、地図をよく見て、広めの道を選ぶことをお勧め申し上げます。
伊庭児童公園の道路わきは、短時間であれば駐車できるようでした。

安土城まで車で10分です。
セットでどうぞ。

観音寺城と六角高頼
安土城 織田信長が天下に示した最新のアトラクション
日本全国のお城マップ地図(オリジナル)

 

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攻略難易度
中級者向け
旧国名
近江
著者コメント
遺構は乏しいですが水路は素敵です。




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