近江・山崎山城(やまざきやま-じょう)は、 滋賀県彦根市稲里町にある標高147m、比高50mほどの山城になります。
別名は、近江・山崎城のため、山城国・山崎城(天王山)との区分もあり、山崎山城と呼ばれることが多いようです。
源頼朝の命にて、山崎憲家が近江の守護職佐々木氏の被官となって知行したようです。
相模・山崎氏の11代・山崎憲家(山崎源太左衛門賢家)は宇多源氏佐々木氏の支族のひとつだったようで、相模国山崎(箱根湯本の東側にある箱根山崎古戦場跡付近)に住んでいたとされます。
この箱根山崎の戦いは、戊辰戦争の際に幕臣となっていた伊庭八郎が、新政府軍の小田原藩兵と戦った場所ですので、鎌倉時代の話ではありませんが・・。
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その後、近江・山崎氏は断絶などもあったようですが、 戦国時代になると山崎重家(山崎右衛門尉重家)が、佐々木・六角氏に属していたようです。
その山崎重家との関連性は不明ですが、山崎丹波守宗家の子である山崎片家(やまざき-かたいえ)は、観音寺城主・六角義治(佐々木義弼)に仕えていました。
しかし、1568年に織田信長が六角氏を攻めると、いち早く寝返って織田家に臣従しています。
その後、山崎片家は、織田家の家臣として、1570年、姉川の戦いにも参じましたが、この頃、織田信長が下街道を整備し、そして山崎山城も整備されたとされます。
1573年には足利義昭の槇島城の攻撃にも加わっています。
1581年、第二次天正伊賀の乱では信楽口から進軍しました。
1582年4月、武田勝頼を滅ぼしたあと、織田信長が京へ凱旋する際には、山崎山城下に茶屋を設けて饗応しています。
しかし、1582年6月、明智光秀の謀反により本能寺の変が発生しました。
このとき、類の安土城の本丸は蒲生賢秀、そして、山崎片家は安土城の二の丸を守備していたようで、
嫡男の山崎家盛が、近江・山崎城を守っていたようです。
山崎片家は、城下の屋敷に火を放って焼き払い、近江・山崎山城に戻って籠城しました。
ただし、明智勢が安土に入ると、援軍も見込めないことから、山崎氏は明智勢に降伏しています。
そして、佐和山城の接収などに味方していたため、山崎の戦いには参加しなかったようです。
羽柴秀吉が明智光秀を討つと、すぐに羽柴家に従い、所領の安堵を受けました。
その功績からか、山崎片家は摂津・三田城を与えられて、2万3000石の大名となりました。
そして、豊臣秀吉の家臣として1590年には小田原攻めにも参じ、岩槻城の戦いにて、その名が見受けられます。
また、本能寺の変の前後の年代と推測致しますが、山崎片家の娘が、加藤清正の正室にもなっています。
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近江・山崎山城への交通アクセス・行き方ですが、 JR東海道本線・河瀬駅からタクシーで約15分となります。
歩きますと、河瀬駅から徒歩40分です。
山の上に大きなタンクが2つある山の南側が城址です。
無料の駐車場が北側の麓に整備されています。
また、本丸にも遊歩道が整備されているようです。
しかし、公園整備した割には、昔の石垣に土をかぶせてしまったりしているなど、逆におかしくしてしまったよう、あまり評判がよくない模様です。
このあとは肥田城に向かいました。
・彦根城~国宝・彦根城の魅力とその防御陣形
・肥田城 高野瀬秀隆 野良田の戦い
・関西方面の城跡めぐりマップ(オリジナル)
この山﨑家は、今も岡山県地方や熊本県天草地方などを中心に
100人ぐらい存続しています。
関ケ原合戦の直前に、下野の国(栃木県)の小山宿近くにいた、
徳川家康へ西軍の情報を伝えたのはこの山﨑家です。
そして、東軍は西方に向かうことを決断し、家康は江戸城へ向かうことになるのです。
この時の書状は今も保存されています。
山﨑はこの情報により徳川家が勝利し、その結果、
長く戦いのない平和な世の中になることを予想し、希望していたのです。
西軍が勝利していたら、戦乱の世の中だったでしょう。
山﨑家は決して、恩賞を目的に家康へこの情報を届けたのではありません。
事実、恩賞と言えるものはありませんでした。