1600年9月15日、関ヶ原の戦いで敗れてしまった石田三成。
石田三成に味方した西軍諸将は、関ヶ原で討死・自刃した者もいれば、本国への逃走を図った者もいました。
関ヶ原の敗戦
そんな中のひとり、長束正家は関ヶ原から直線距離で約65kmで歩くと約16時間の「甲賀」が本拠地で、わりと関ヶ原は近いと言えます。
南宮山の東に布陣し徳川家康の後方を狙いますが、吉川広家の妨害で戦いに加わる事ができませんでした。
多少、池田輝政や浅野長政らと小競り合いはありましたが、兵力はかなり温存できており、石田三成の敗走を知ると、居城・水口城(水口岡山城)を目指して撤退を試みます。
決死の中央突破を行い、大阪方面に撤退する島津義弘のために、家臣を道案内として派遣したとも言われていますが、徳川勢も退却する部隊をただ見ていた訳では無く「手柄」を建てようと、執拗に追いかけました。
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退却する長束正家を追撃したのは、因幡・鹿野城主の亀井茲矩と山名豊国、池田長吉(池田恒興の3男)ですが、甲賀が本拠である山岡景友(山岡道阿弥)も東軍に加担したようです。
この時、水口岡山城では弟・長束直吉が守備を任されていました。
迫って来る敵を鉄砲で追い払い、松田秀宣の活躍もあって無事に長束正家は水口岡山城に入城したと言います。
しかし、水口岡山城へあと少しのところで弟・長束玄春は捕捉されて、処刑されてしまいました。
水口岡山城を攻撃するには兵力も少なく、徳川勢の亀井茲矩・池田長吉は、長束正家に本領安堵と約束して降伏を促します。
これに応じた長束正家が城を出たところ、たちまちに捕縛されてしまい、同様に重臣の嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞ら6名も城に入った池田勢に捕われてしまいました。
※長束正家は日野に逃れたあと自刃したとする説もあります。
騙された長束正家は運命を受け入れ、1600年9月19日、弟・長束直吉と共に、家臣・奥村左馬助の介錯にて切腹して果てました。享年39。
重臣6名も、近江日野の櫻井谷(日野佐久良谷)に連行されたあと切腹となり、長束正家の首は、京都の三条橋で晒され、水口岡山城の財産は、池田長吉に奪われたとされています。
長束正家の正室・栄子姫も城を脱出したあと出産しましたが、まもなく死没したとの事です。
現在「古城山」と表記される水口岡山場の山頂(主曲輪跡)に奉られた「阿迦之宮」には、悲運の城主・長束正家が祀られており、春には毎年慰霊祭が行われます。
水口岡山城
滋賀県甲賀市水口町にある水口岡山城(みなくちおかやまじょう)は、江戸時代の1634年に築城された水口城と場所が異なり、水口城の東にある「古城山」にあった山城で、戦国時代まで使われていました。
古城、水口古城、岡山城とも呼ばれ、標高は283m、比高103mの丘になっており、国の史跡に指定されています。
もともと、水口は、京から伊勢に通じる東海道(国道1号)の要所として栄えていました。
水口岡山城は、1585年に羽柴秀吉の家臣・中村一氏が甲賀を支配する為、水口岡山城に入り築城を開始したとされています。
築城には高島市にある大溝城の建築物が移築されたとも伝わります。
下記は石垣ですがあまり残されていません。
多くの石垣は、江戸時代に作られた水口城に転用された為、この古城山には残されている石垣は貴重です。
1590年、小田原攻めのあとには増田長盛が水口岡山城主となり、1595年には長束正家が5万石にて入り、その後12万石に加増されています。
1600年、伏見城から会津の上杉景勝を征伐するために出陣した徳川家康は、水口を通行しました。
この時、長束家の家臣らが徳川家康の命を狙っているとの噂を甲賀衆・篠山景春が徳川家康に報告したため、徳川家康は水口では宿泊せずに素通りしています。
関ヶ原の戦いにおいて、長束正家は西軍・石田三成に協力し、本戦では南宮山麓に布陣しますが、吉川広家の妨害で動く事ができず、西軍が壊滅すると水口岡山城を目指して撤退したのは前述したとおりです。
墓標と思われるものもいくつかありました。
水口城にて命を落とした家臣の御子孫が供養の為に建てたのでしょうか?
平日の午後に訪問致しましたが、本丸には先客がお一人さまおられました。
平日だと誰かに会う事はあまりないので、珍しかったですが、下記写真のように黒牛さん?もいました。
目が悪いので、良くわかりませんでしたが、全く動いていなかったので、この動物は本物ではないようです。
また、水口岡山城の会さんにより、水口岡山城に扮した巨大バルーンを山頂に掲げるイベントも定期的に行われているようですので、そのような活動は素晴らしい事です。
交通アクセス
水口岡山城への登城ですが、駐車場が中腹にあります。
細い道を上がって行く途中には「駐車場」が先にあると言う表示もありました。
しかし、貯水施設付近(下記写真)から先は、普段は閉鎖されているようで、道は途中までしか進めませんでしたが、2台ほど止められるスペースにクルマを止めて見学させて頂きました。
念の為、ご案内致しますと、下記の地図ポイント地点(上記写真地点)に車を止めた次第です。
地図は縮尺を変えてご確認願います。
なお、西側の麓にも観光用の駐車場がもうけられています。
電車の場合、近江鉄道の水口駅から徒歩20分、登城口から本丸まで25分程度の登りとなります。
クルマを止めて閉鎖されている西へと延びる道をゆるやかに登って行きますと、終点には約10台止めらる駐車場(下記写真)がありますが、前述のとおり途中から徒歩でしか入れません。
しかし、最終的には1周する形で、別の遊歩道から車を止めた場所まで戻れましたので、かえって良かったと思います。
上記は水口岡山城の全景です。
水口岡山城の見学所要時間です、私の場合で30分でしたが、麓からですと、60分くらいは見た方が良いかと存じます。
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※この記事は関ヶ原情報の記事を再編集したものとなります。
・長束正家~豊臣家で財政を担当した算術に優れた武将
・伏見城の戦いと伏見城 【関ヶ原の戦い前哨戦】
・長束正家陣跡への行き方~なぜ南宮山の関ヶ原西軍は動かなかったのか?
・石田三成とは~律儀で算術が得意だった才ある武将
・島津の退き口~島津の撤退戦と島津豊久の碑【関ヶ原近郊の史跡】
・山岡景友(山岡道阿弥)~関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した甲賀忍者
・中村一氏 秀吉に信任され対徳川家康の最前線を守った譜代の臣
・水口温泉「つばきの湯」~人工温泉はほんとうにゆっくり浸かれるよ
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