茨城県

常陸・石塚城 なかなか規模も大きい石塚氏の城

常陸・石塚城

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常陸・石塚城(いしづか-じょう)は、茨城県城里町石塚にある標高47m、比高30mの丘城です。
最初の築城は、南北朝時代の1362年に石塚宗義が築いたとされます。
この石塚宗義は、足利尊氏に味方し常陸守護になった佐竹家9代の佐竹義篤の3男になります。
長兄は佐竹義宣ですが、他にも小場義躬、大山義孝、藤井義貫と称し、それぞれ分家した兄弟がいます。


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なお、石塚城のすぐ北には、下圷館(しもあくつ-やかた)がありますが、最初に石塚宗義は下圷館に入ったようです。
そのあと石塚城を築くと移って、下圷館には重臣と考えられる桐原氏が住みました。

しかし、石塚城も、この北茨城の他の多くの城同様に、台地の端っこにある丘城と言え、佐竹系の城郭では一般的です。

常陸・石塚城

昔の茂木街道が現在の国道123号で、石塚城の中を抜けて、北側の水田地帯に降りる道路「手這坂」は、昔から使われていました。
厳密に申し上げますと、クルマが通行できる道路とは微妙にズレたところに旧道(人が歩く道)があった模様です。

坂の上(坂を下り始める)ところに、石塚城址の小さな標識があるそうですが、交通量も多く、クルマの運転中に気が付きませんでした。
土橋や空堀跡も、そこから少し入るとあるようで、城域は額田城のように結構広かった模様です。

常陸・石塚城

戦国時代には、石塚城主・石塚義国の娘で、絶世の美女とされる瑠璃姫をめぐり、常陸・大山城主の大山義則と、日立・小場城主の小場義宗が合戦をしており、佐竹義重が仲介しています。
ちなみに、瑠璃姫は、小場義宗(佐竹西家)に嫁いでおり、嫡子・朝日丸を産んでいますが、夭折したようです。
それを、大山義則のせいだと考えたようで、小場義宗は石塚義国と大山城を攻撃する計画を立てるも、察した大山義則は先制して石塚城を包囲したようです。
そこを小場勢が背後から大山勢に襲い掛かるなどしたようですが、これを佐竹義重が仲介して和睦させたと言う事になります。


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年代は諸説ありますが、石塚義国が養父・石塚義慶のあとを継ぐと1591年~1595年頃に、佐竹義重の命にて石塚城から常陸・片野城に移動しています。
その後、佐竹東家で常陸・山方城主である東義久(佐竹義久)・東義賢の親子が石塚城主となりました。
常陸・戸村城から寄りましたが、他にも近くには、高久景有の高久館などがあります。

戸村城 戸村義国が生まれた戸村氏の居城
小場城 戦国期に佐竹氏を支えた小場義成の居城
額田城 東京ドーム22個分 額田照通の本拠地


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コメント

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  • コメント (2)

    • 匿名
    • 2019年 11月 09日

    ありがとうございます、大変参考になりました。
    疑問点があります。
    瑠璃姫の話し実話でしょうか?
    小場義宗が石塚義国の娘瑠璃姫を大山義則と取り合った話しですが、石塚義国とは義宗の次男義辰が石塚義慶の婿養子に入り後に名乗った名前ではないのですか?違うのであれば、石塚義国の父や兄弟は誰でしょうか?
    また大山義則の父や兄弟は誰ですか?
    義則は義成と同一人物でしょうか?

    大山一族の歴史をもっと知りたいので是非ご連絡下さい。

  1. 匿名さま
    ご覧頂きましてありがとうございます。
    ご質問賜りました件は、何かわかれば、コメント欄に今後入れさせて頂きます。
    なお、実話かどうか、確認するのは、400年たった今では困難です。
    歴史上の話としてご理解賜りますと幸いです。
    下記のような話もあります。
    へっぴり坂

城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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