常陸・河和田城(かわわだ-じょう)は、茨城県水戸市河和田町にある平城です。
最初の築城は、1336年に鍛冶貞国が築いたとされます。
鍛冶貞国は、馬場城(水戸城)の大掾氏の家臣で、のちに川和田入道と称しました。
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平地の湿地帯を巧みに利用した微高地にある城で、現在、堀の多くは埋められて宅地が建っています。
本丸跡から近い所には、河和田小学校があり、石碑がありますが、実際の本丸は南東の療育センターがあるあたりだったようです。
城域は結構広いです。
1387年、小田氏の乱のさなか、鎌倉公方・足利氏満に叛いて滅亡した小山義政の子・小山若犬丸が、祇園城(下野・小山城)にて籠城します。
このとき、難台城の戦い(難台山合戦)にて、大掾氏の当主は、まだ幼少で働きが不十分だったことから、関東管領・足利氏満に従っていた江戸通高に河和田城が与えられました。
この頃は、水戸あたりよりも、河和田のほうが賑わっていたとされます。
1416年には、上杉禅秀の乱で戦功があった 江戸通房がこの辺りの領主になりましたが、大掾氏は明け渡しを拒否して馬場城(水戸城)を占拠し続けたとあります。
しかし、1419年、大掾満幹を破った江戸道房が馬場城(水戸城)に入ると、弟・江戸通常を武熊城に入れ、一族と考えられる春秋氏が河和田城主に抜擢されました。
ちなみに、偕楽園近くに、常陸・見川城がありますが、そこも春秋氏の持ち城になったようです。
戦国時代、江戸重通は常陸・太田城の佐竹氏になかば臣従していましたが、1590年、小田原攻めのあと、豊臣秀吉の黙認を受けた佐竹義宣が水戸城を攻めて江戸氏を滅ぼしています。
このとき、春秋上野八郎の河和田城や常陸・小幡城なども落城しました。
廃城後は城跡に報仏寺、天徳寺がありますが、水戸藩主・徳川光圀(水戸黄門)が寺院の整理を行った際に移転したもので、伝舜院跡に天徳寺があります。
河和田城跡にある水戸・天徳寺は、もともと佐竹氏の菩提寺でした。
河和田小学校の中にある石碑は、外の道路から見えます。
もし、学校敷地内に入る場合には、必ず許可を得たいところです。
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報仏寺の山門脇には、土塁と堀跡が残り、河和田城の石柱もありました。
脇にクルマも止められる広いスペースがあります。
交通アクセスですが、JR常磐線の赤塚駅にて下車し、水戸市西部バス「常陸高田」行きに乗車して、河和田小バス停下車となります。
報仏寺の山門脇にある駐車場が参拝がてら利用可能です。
・常陸・太田城(舞鶴城) 戦国大名に発展した佐竹氏の本拠地
・水戸の偕楽園 領民でも入れた大規模な大名庭園
・水戸城 徳川御三家の日本100名城 見どころポイント
・常陸・小幡城 技巧も豊かな深い堀で迷う素晴らしい城
「一族と考えられる春秋氏が河和田城主に抜擢され」とありますが、
江戸氏は藤原秀郷流那珂氏一族なので藤姓。
春秋氏の発祥は鹿島郡春秋村で常陸大掾氏~鹿嶋氏~立原氏が出自で平姓。
春秋氏が閨閥により江戸氏一族になった可能性は否定しません。