秋田県

出羽・六郷城 六郷道行と六郷政乗

出羽・六郷城

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出羽・六郷城(ろくごう-じょう)は、秋田県仙北郡美郷町の標高40mにある平城で、沼沢地の中にある島ののような状態でした。
この六郷は湧水がいくつもある水源が豊富な場所となっています。
最初の築城は不明ですが、六郷氏を称した武将は、鎌倉御家人の二階堂道晴(二階堂三郎左衛門道晴)となります。
二階堂道晴は鎌倉から宮司を呼んで、坂上田村麻呂が創建したと伝わる秋田諏訪宮を再建しています。
もともと、武蔵国の六郷から移ったため、六郷氏を名乗ったと模様です。


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ただし、現在の六郷城跡が築城されたのは戦国時代の永禄2年(1559年)とされます。
六郷道行(六郷弾正道行)が、稲荷岡の東にある沼地に六郷城を築くと居城とし、六郷衆と呼ばれました。
この六郷道行(ろくごう-みちゆき)の時に、二階堂氏から改姓したともされます。

出羽・六郷城

その子・六郷政乗(六郷兵庫頭政乗)は、1567年生まれとなります。
六郷政乗(ろくごう-まさのり)は、1586年に、横手城主・小野寺義道が最上領へ侵攻した際に、本堂氏・久米氏・金沢氏らと共に小野寺勢に加わりました。
また、1587年にも小野寺勢の山北七人衆の一人として安東実季(秋田実季)と戦っています。
1588、峰ノ山の戦いで、安東愛季と小野寺義道が対陣すると、両者を説得して和睦に貢献しました。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めで、六郷政乗は参陣し4518石を安堵されています。
太閤検地では、大谷吉継の家臣・安田上総介が六郷城に入って周辺の検地も行っていますが、仙北一揆の発端となる事件は六郷で発生しました。

出羽・六郷城

六郷政乗は、六郷城下を出羽の北部では屈指の城下町に発展させ、1600年の関ヶ原の戦いでは、すぐさま出陣し、江戸から東海道を西に進んで、金谷にて徳川家康に合流しました。
その功績により、常陸府中1万石に加増移封され大名となり、石岡にて府中藩の藩主になりました。
1614年からの大坂の陣でも戦功を挙げ、1623年に最上氏が改易されると、その旧領である出羽の本荘城にて2万石となり、本荘藩の初代藩主に就任しています。

なお、六郷政乗が去ったあとの六郷城は、佐竹家の川井伊勢守と箭田野安房守らが受け取り、まもなく隠居した佐竹義重が入城しました。
1603年には、没落していた小野寺家の旧臣らが、1000にて六郷城を包囲したため、六郷城の守備200に加えて、近隣の町民や農民らが籠城しています。
大曲城主・梶原政景や、出羽・金沢城からの援軍もあり、坂東太郎の異名で名高い佐竹義重は撃退しています。
1612年、佐竹義重が狩猟中に落馬して死去すると六郷城は破却され、郡奉行所が置かれました。


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現在は六郷城跡の本丸に田岡神社が祀られており石碑が建っています。
横手城から訪問しましたが、絶賛「雨天」でして、ウロウロするのは差し控えました。

本丸跡の道路反対側付近に、駐車可能なスペースがありましたので、当方のオリジナル地図にてわかるようにしておきます。

横手城 小野寺氏が本拠地にした出羽の拠点
小野寺義道 仙北一揆で所領を減らし関ケ原の戦いで改易
安東愛季 安東氏を大きく飛躍させた戦国大名
佐竹義重 毛虫の兜をかぶった常陸の猛将
本荘城 楯岡満茂が整備した由利の一大拠点
日本全国「お城」マップ増殖中


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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