京都府

余部城(丹波・丸岡城) 明智勢攻略の城も天守があったか?

余部城(丹波・丸岡城)

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余部城(あまるべ-じょう)は、京都府亀山市にある比高10m程の丘城です。
丹波・丸岡城と言う名称でもよく使われますので、両方の名称で覚えておく必要があります。
築城年代はよくわかっていませんが、応仁・文明の乱の頃(1467年頃)には、中沢正綱(中沢因幡守正綱)が丹波・丸岡城主でした。
亀山の中澤氏と言うと、国道423号沿い、別院庄町の笑路城主や、神尾山主として知られますので、その一族だと推測致します。

のち、戦国時代には、城主として福井貞正が見受けられます、この福井氏に関しては鎌倉公方・足利氏満の4男である福井満貞の子孫とする説もあるようです。
やがて、八上城の波多野氏が丹波を支配下に置くと、余部城主の福井貞政(福井因幡守貞政)は波多野氏に従っています。


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黒井城主・赤井直正(荻野直正)が但馬守護である山名祐豊との抗争に勝利し、竹田城を攻略するなどして織田家に背いたため、1575年6月、織田信長は丹波・丹後の平定を明智光秀に命じます。

明智光秀は丹波へ出陣すると、まずは、丹波・黒井城で籠城する赤井直正を包囲しました。
この時、丹波の国人衆らは明智勢に従っていましたが、1576年1月、八上城主・波多野秀治が寝返り、背後から明智勢を襲撃しため、明智光秀は敗走しています。

そのため、今度は、細川藤孝の軍勢が加わり、1577年10月、再び、明智光秀は亀山に進軍しました。
このとき、籠城している丹波・丸岡城に使者を送り、降伏を促しました。

丹波・丸岡城

しかし、福井貞政(福井因幡守貞政)は、名を後世に残すのが武門の道とし、使者の髻を切り腰刀を取り上げて、追い返したと言います。
そのため、明智光秀は丹波・丸岡城への攻撃を開始して、何度か攻めた後、ついに、天正6年6月3日、宇津根・雑水川・安行山の三方向から城の塀を破って攻め込みました。

余部城の福井与市ら五十余人が本丸の門外で討死し、福井貞政も本丸にあった持仏堂にて自害し、300名の郎党は丸岡城と運命を共にしました。

そのあと、明智光秀は丹波・八上城も攻め落として、丹波を統一し、荒塚山に丹波・亀山城(丹波・亀岡城)や福知山城の築城を開始します。


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現在でも余部城(丹波・丸岡城)の付近には「古城」「古城浦」「政所」などの地名が残ります。
西岸寺(さいがんじ)がある場所が本丸とされています。
ただし、明智光秀が山崎の戦いで敗れた後も、丹波・丸岡城は使われていたようで、江戸時代の1654年に、旧余部城の天守や土蔵を取り壊したとの記述もありますので、原初的な天守もあったようです。

交通アクセス・行き方ですが、JR亀岡駅より徒歩約15分となります。
古い町並みで、狭い道が多く、駐車場はありません。

ちなみに、丸岡城と言うと、通常は、越前・丸岡城を連想すると存じますので、丹波・丸岡城と明記させて頂いております。

黒井城 赤井直正(萩野直正)の戦国と春日局の誕生地
丹波・八上城 波多野稙通(波多野元清)
明智千代丸 (明智伊勢千代丸) 小畠国明 小畠永明
明智秀満 本能寺の変を明智光秀が最初に相談した重臣
斎藤利三~明智光秀の重臣として明智家を支えた勇将
福知山城のみどころ 塩見頼勝・小野木重勝も


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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