新津城(にいつじょう)は、新潟県新潟市秋葉区にある平城です。
最初の築城は不明ですが、新津氏によって築かれたとされています。
新津氏は清和源氏・新羅三郎義光の庶流で、平賀有義(源盛義)の子・金津資義(すけよし)が、蒲原郡金津保の地頭職となり、金津小次郎と称します。
この金津城主・金津有義の二男・金津資直が金津氏を継いで金津城主となり、三男・金津信資は、新津信資(新津越前守三郎信資)と称して新津氏の祖となり分流しました。
なお、新津氏は越後・城氏に従っていたようです。
戦国時代には、永正3年(1506年)に、新津越前守と言う武将が越後守護代・長尾為景に服属して以降、長尾家(上杉家)に従いました。
慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となった際に、新津勝資がついて行っています。
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新津勝資
新津勝資(にいつ-かつすけ)は、新津勝邦の婿養子となった武将で、実父は越後・三条城主の山吉政久(山吉豊守の父)となります。
敬神崇仏の念が篤(あつ)く、祖先が金津の地に奉祀(ほうし)した、掘出神社を新津の町に移しています。
また、朝日の普談寺観音堂の再建では願主となり、菩提寺である正法寺を大鹿から新津に移転させるなどしました。
また、一之堰の創始者には特典を与え、民生の安定を図るなど内政にも尽力しています。
第4次川中島の戦いでは、揚北衆と共に参陣し、遊軍として活躍しました。
上杉景勝の代では、新発田重家の乱、小田原攻め、文禄・慶長の役など、ほぼ全ての合戦に参じて、その勇猛な戦いぶりから上杉二十五将にも入っています。
文禄2年(1593年)、婿養子・新津秀祐に家督を譲り、新津丹波守勝資は、慶長5年(1600年)8月に会津にて死去しました。
新津秀祐は二本松城主となった安田能元の同心衆として2000石となっていました。
子孫は米沢上杉氏の家臣(500石)として代々続いています。
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ただし、第24代・新津続宗は、幕末にが米沢藩兵として、新津の土を踏みましたが長岡で戦死しています。
さて、新津城ですが、遺構は消滅していて、新津自動車学校の西側にある道路沿いに「新津城跡」の碑が建てられているに留まります。
越後・新津城の南東にある東島城が詰城として機能していたと考えます。
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