長崎県

肥前・平戸城 天守閣からの眺めが良い港町の城

平戸城

肥前・平戸城(ひらどじょう)は、長崎県平戸市にある別名を亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城とも言う梯郭式平山城で、平戸瀬戸に突き出た丘陵上にあります。
国史跡ではありませんが、日本100名城に選出されています。

平戸城

三方を海に囲まれた天然の要害であることから、萩城との立地に似ています。

平戸城の縄張り図

もちろん、下記のような「井戸」もありました。
各写真はパソコンでクリックすると拡大致します。

平戸城の井戸

1600年、関ヶ原の戦いでは、大坂にいた松浦久信は西軍の石田三成に協力し、鳥居元忠伏見城攻めや、伊勢・安濃津城攻めに参陣しました。

平戸城

しかし、唐津にいた松浦鎮信は、大村領主・大村喜前、島原領主・有馬晴信、五島領主・五島玄雅の肥前4将で肥前・神集島に集まって、東西どちらに付くか協議したと言います。

平戸城

その結果、国許にいた松浦鎮信は東軍参加の盟約に加わりました。
下記は二の丸にある亀岡神社です。

亀岡神社

東軍に味方すると決めた松浦鎮信は、徳川勢から籠城して抵抗するような誤解を受けないよう、築城中の唐津城の一部を焼却するなどしたことも評価され、壱岐・松浦郡6万3200石の所領が安堵となり、伏見城攻めにも加わっていた子の松浦久信もお咎めなしとなっています。

平戸城の狸櫓

そして、松浦鎮信は家督を松浦久信に譲ったようで、平戸法印と称しますが、1602年に、江戸に赴く途中、子の松浦久信は伏見で病に倒れ急死してしまいました。享年32。

平戸城

この時、松浦鎮信は平戸・印山寺の僧に、祈祷させたにも拘わらず、松浦久信が急死しため、印山寺の僧侶らを処刑しようとしたと言います。
そのため、僧侶が皆逃げ出して葬儀ができなくなり、わざわざ壱岐から安国寺の僧が平戸に渡って来て葬儀を行ったと言う話があります。

平戸城

1602年、松浦久信の遺児・松浦隆信が第28代当主となり、松浦鎮信が後見します。

平戸城

そして、1603年には松浦久信の遺児・松浦隆信を連れ、江戸城にて徳川家康に拝謁しました。

平戸城

しかし、この頃にはキリスト教の弾圧が厳しくなっており、遺児・松浦隆信の母であるソニカ(松東院)と、極度のキリシタン嫌いである松浦鎮信との対立だけならよかったのですが、徳川幕府からも平戸藩は目をつけられるようになります。
下記は平戸城からの展望ですが、梅雨の時期でして、強雨が止んだのを見計らって登城したため、天気が悪くお詫び申し上げます。

平戸城からの展望

平戸城の標高は53mとなります。
下記の赤い橋は「平戸大橋」です。

平戸大橋

下記は平戸の街並みとなります。
写真ではわかりにくいですが、教会も写っています。
江戸幕府からオランダとの貿易許可を得て、1609年にはオランダ船2隻が初めて平戸に入港し、オランダ商館も設置されました。

平戸の街並み

1613年に江戸幕府はキリスト禁止令を全国に広げ、1614年には高山右近など棄教しなかった者や宣教師らを国外追放にしています。

平戸城

それでもこのソニカ(松東院)は平戸のキリシタンを陰から支援したため、1630年、江戸幕府はソニカとその親族の江戸在住を命じます。

平戸城

そして、江戸の浄土宗・広徳寺に幽閉し、息子・松浦隆信の死に目にもあえないまま、広徳寺で死去しました。享年82。

平戸城

晩年の松浦鎮信はオランダ使節を駿府城へ連れて行き、貿易の許可を得るなどして平戸貿易の再興を果たしていますが、一方で、1613年には完成間近の平戸城に火を放ち破却しています。

平戸城

以後は「中の館」と呼ばれる居館が平戸藩の藩庁となっています。
下記の写真中央にある大きな屋敷が藩庁(現在の松浦史料博物館)です。

平戸城からの展望

1614年5月26日、松浦鎮信が死去。享年66。

松浦鎮信の墓は平戸の最教寺にあります。
先に下記では「平戸城」をご紹介致しますが、その最後に「松浦鎮信の墓」の訪問記も記載したいと存じます。

平戸城の井戸

さて、一度、廃城となった平戸城ですが、平戸藩4代藩主・松浦重信が1702年に幕府に願い出ると、1703年に許可されて、平戸城を修復を行いました。

平戸城

この時、播州・赤穂城でも採用された山鹿流軍学に基づく縄張りが行われ、山鹿義昌が築城指導し、1707年にほぼ完成しました。
桝形も重厚感を感じます。

平戸城

なお、天守は設けられず、二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用としていたとの事です。
そのため、現在の平戸城の複合式層塔型3重5階の天守は、鉄筋コンクリート造模天守となっています。

平戸城

平戸城へのアクセスですが、肥前・名護屋城からだとクルマで約2時間30分の距離です。
平戸城の駐車場ですが、下記の案内図どおり、いくつかあります。

平戸城の案内図

一番便利な駐車場は、下記の地図ポイント地点となりますか、約6台くらいしか止められませんので、満車の時には、その先にある大き目な駐車場に止めても、平戸城訪問には問題ありません。

道路は南側から侵入する「一方通行」となりますので、交通規制を遵守願います。

平戸城

そうそう、平戸城の天守は有料拝観ですが、JAF割引が使えます。
観光所要時間は、私の足で約40分でした。

下記は平戸市役所の脇にあるアーチ橋で「幸橋」(さいわいばし)と言います。

平戸の幸橋

1669年(寛文9年)に当時の平戸藩主である松浦鎮信(松浦天祥)が木造の橋が架け、長年の不便が解消して幸いだったことから「幸橋」と命名されました。
その後、1702年に松浦棟が現在の石橋に架け替えたもので、石はオランダ商館の物を転用したともされ別名はオランダ橋と言い、国の重要文化財となっています。

松浦鎮信の墓

松浦鎮信の墓は、平戸城からもほど近い最教寺の境内にあります。

平戸・最教寺

梅雨の時期ですので、あいにくの雨が降り出しましたが、頑張って散策してみました。

最教寺の案内図

実は最教寺の「三重大塔」は有名でして、平戸城からも望めました。

最教寺の「三重大塔」

下記のような、厳正な雰囲気の石仏群を抜けて登って行きますが、雷雨接近で空がもう暗くなりかけていたことから、ちょっと恐怖感も味わえました。

最教寺の石仏群

その石仏群を抜けたところの階段を登ると三重大塔なのですが、階段は上がらないで、そのまま真っ直ぐ進みます。
しかし、写真でも先が良く見えないくらい、うっそうと木々が茂った中にありました。

松浦鎮信の墓への入口

下記が松浦鎮信の墓です。
丁重に頭を下げまして写真撮影させて頂きましたが、ご覧の通りフラッシュがないと写らないような暗さです。

松浦鎮信の墓

松浦鎮信の墓は、案内の石碑があったので分かりましたが、その周辺にもたくさんの石碑(墓)がいくつも無造作にあります。

松浦鎮信の墓

近くには、小麦様の墓などもあるようなのですが、足元は枯れ木や繁みもあってきちんと草が刈られているのは、松浦鎮信の墓の部分だけでして、その他にも蚊もスゴくて、ゆっくり探す気にもなれません。

松浦鎮信の墓の近く

それにこの「暗さ」でして、写真に写っている白い丸のようなものは「雨粒」であることで、ご理解頂けるように「雨」で足元も悪いため、これ以上は断念しました。

松浦鎮信の墓の近く

最教寺へのアクセスですが、下記の地図ポイント地点が境内駐車場となります。

日本100名城のスタンプは、平戸城天守閣に設置されています。

松浦家は8代目となる松浦久(ひさし)が1069年に下向してから約800年間、この地を守りました。
天守が復元されている城としては、九州の最果てとも言えませんが、機会があれば是非ご訪問してみてはいかがでしょうか?

この記事は戦国武将列伝Ωの記事を再編集したものです。

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肥前
著者コメント
天守からの展望も素晴らしいです。

 

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