越後・北条城(きたじょうじょう)は、新潟県柏崎市北条にある、標高140m、比高110mの山城で、長鳥川の丘陵上にあります。
最初の築城は不明ですが、鎌倉幕府の公文所別当・大江広元の4男・毛利季光の系統となる越後毛利氏(安芸の毛利家とも親戚)の北条氏の代々の居城でした。
ちなみに、相模の毛利氏発祥の地は下記にてレポートしています。
1247年の宝治合戦にて毛利季光は三浦泰村に味方し討死したため、没落します。
しかし、毛利季光の4男・毛利経光は、越後・佐橋庄にいて、関与しなかったため、越後・佐橋庄と安芸・吉田庄の2つを安堵されました。
のち毛利経光の次男・毛利時親が佐橋庄と吉田庄を継ぎましたが、南北朝時代に安芸・吉田郡山城を本拠とします。
そのため、毛利経光の長男であった毛利基親の系統が、越後・佐橋庄を継いで、一時、越後・南条館を本拠と、南条氏と称していました。
そのあと、越後・北条に館を移すと「北条氏」と称して、越後毛利氏の嫡流である越後北条氏となりました。
下記は、越後・北条館跡がある諏訪神社です。
越後・北条家としては、毛利経高―北条晴良―北条長広―北条延広―北条広栄―北条重広―北条広栄―北条輔広―北条広春―北条高広―北条景広と続きました。
越後北条氏は大江広元の「広」の字を、通字にしているのが特徴です。
越後・安田城に移った北条一族は、安田氏を称しています。
麓にはいくつか寺院があり、越後・北条家の菩提寺・専称寺には越後・北条城の大手門が移築されていました。
専称寺からが大手道となり、普広寺からは搦手となり、登城路の途中には、初代・毛利時元の墓もあるようです。
普廣寺には搦手門が移築されています。
また、家臣である深沢城主・村山安芸守正勝の墓もあるようです。
この搦手からも登城可能で、専祢寺には大きな参拝用駐車場が完成しています。
なお、川向うの諏訪神社がある場所が、北条氏の館跡となります。
戦国時代になると、武勇を称された北条高広(きたじょう-たかひろ)を排出しています。
しかし、1578年、上杉謙信の死後に勃発した御館の乱にて、北条高広の子・北条景広は上杉景虎(北条三郎)に味方して中心人物のひとりになりました。
ただし、上杉景勝勢に攻められて討死し、越後・北条城は落城しています。
北条高広の次男・北条勝広はのちに許されて、上杉家に復帰していますが、旧領には戻れていないため、越後・北条城は廃城になっていた模様です。
JR信越本線「北条駅」より徒歩10分と近いです。
なお、クルマの場合、越後・北条城には舗装されている林道が通っていて、その途中に駐車スペースがあり、北条城の南側から入れます。
ただ、夏と言う事もあり、暑くて、水の飲みすぎで、急にトイレに行きたくなり、断念しました。
なお、南から登って行きましたが、例によって、その駐車スペースを通り過ぎました。
他の城跡の印象と混同し、もっと城へ入りやすい場所にあると勘違いし、そのまま林道を進みましたら、やがて、砂利道へと変わってしまいました。
そのため、細い道を、神経を使いまして「バック」で300mほど戻っています。
いつもこんな感じです。(^-^)
本当に、レクサスを購入したいのですが、狭い道を通ったり、旋回できずバックで戻ることも多々あるため、大きなクルマを買えない理由のひとつでございます。
今回は、越後・本与板城でも、バックで戻っています。
そして、トイレがなかなか、無いこと・・。
なんとか、セブン-イレブン・長岡小国町店まで持ちました。(^^;)
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