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大洲城とは
大洲城(おおずじょう)は、小生のスマホアプリで計測したところ、標高約43m、比高33mの平山城で、1331年である鎌倉時代末期の守護職・伊予宇都宮家の宇都宮豊房が築城したとされます。
別名は地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城で、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれています。
伊予宇都宮家は下野・宇都宮家の分家の1つで、約200年に渡り南伊予を支配しましたが、戦国時代の1567年、毛利氏の伊予出兵(もうりしのいよしゅっぺい)を受けます。
この時、毛利勢に味方した河野通宣の軍勢としては村上通康、平岡房実、村上吉継らと、毛利本隊として小早川隆景、乃美宗勝らが、宇都宮豊綱の大洲城に迫り、宇都宮豊綱は緒戦で敗れても、大洲城にて籠城した模様です。
しかし、土佐の長宗我部元親に内通した宇都宮家臣・大野直之によって、大洲城を追われると宇都宮豊綱は捕虜となってしまいました。
その後、ずっと捕虜生活を送ったようですが、1585年に備後にて没しています。
大洲城ではしばらく大野直之が城主を務めたようですが、1585年に小早川隆景が大洲城を攻めると、大野直之は女装して城を脱出。
そして、小早川隆景が35万石で伊予・湯築城に入封したため、大洲城は支城となりました。
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豊臣秀吉が1587年に四国を平定すると、豊臣家臣・戸田勝隆が大洲7万石で、大洲城(地蔵ヶ岳城)に入ってます。
なお、戸田勝隆は宇和島城の原型となる板島丸串城を改修するなどしました。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、戸田勝隆は北条氏規が守る伊豆・韮山城攻めにも参加しましたが、1594年の朝鮮出兵の際、巨済島にて病死し、跡取りがいなかったため戸田家は断絶となりました。
そのため、隣接していた藤堂高虎が加増を受ける形で大洲も領すると、大洲城を本拠地として城郭と城下町を整備しました。
1602年に藤堂高虎は今治城の普請を開始して移り、大洲城には養子の藤堂高吉を置いています。
その後、1609年には淡路・洲本城から脇坂安治が大洲城へ入り、この2人によって天守などの建造物が造営されたようです。
1617年、脇坂安治が飯田城主となり移ると、米子から6万石で加藤貞泰(加藤光泰の子)が6万石で大洲藩主となり、以後は加藤家により明治維新を迎えています。、
大洲城の見どころ
松山空港からレンタカーを運転して、松山道を走る事約60分で大洲城に到着致しました。
まずは肱川(ひじかわ)の対岸から、大洲城を撮影してみました。
各
そして「鵜飼」でも知られる肱川橋を渡って大洲城がある市街地へ入りました。
車を止めたのは、市民会館前の有料駐車場です。57台止められて、60分=150円(以降30分=80円)です。
下記の地図ポイント地点がその駐車場入口となります。
地図は例によって縮尺を変えてご覧願います。
車を止めてまずは大洲城・天守閣の方向へ歩いて行きますと、二の丸大手門跡がすぐあります。
下記のような雰囲気ある建物もありました。
土佐藩の坂本龍馬が「脱藩」した際には、大洲城下を通って、伊予長浜へ抜けたそうです。
その広場には、下台所櫓があります。一応、現存建物です。
その脇にある坂道を登って行きます。
JR予讃線の伊予大洲駅から歩くと、徒歩約20分の距離です。
昔は階段状だったようですが、今では車が通れるように舗装道になってしまっています。
途中には、大洲城の二の丸御殿跡石垣もありました。
今回は「城目的」でしたので、時間が無く寄れませんでしたが、城下町の雰囲気も残している大洲市街地であり、明治40年に完成した有名な臥龍山荘(がりゅうさんそう)や、おおず赤煉瓦館などや、日帰り温泉もありますので、本来であれば3~4時間滞在して観光したい街です。
石垣もなかなか立派です。
さて、天守部分がだいぶ近づいて参りました。
ここから見る大洲城・天守もなかなか良いです。
下記は大きな井戸がある「井戸曲輪」から望む天守です。
現在の天守は市民の寄付などにて2004年にできる限り当時の姿の通りに復元した建物です。
その井戸が下記です。
下記の暗り門跡の上が天守がある「本丸」となります。
本丸に出ました。
天守台はそんなに高くはないようです。
本丸から望む肱川と富士山と呼ばれる山です。
四層四階の木造天守は19.15mの高さで、復元天守としては日本一の高さを誇ります。
その為か、天守の階段を登る際、足がつりました。(^_^;)
本来であれば19mもの高さの木造構造は、建築基準法では認められない規模だったそうで、愛媛県もなかなか建設を認めなかったようですが、2年近く交渉し、保存建築物として建築基準法の適用除外となり、建設されたとの事です。
素晴らしい判断ですよね。こうやって、市民の思いがきちんと観光資源となっている訳ですからね。
また、江戸時代から残る台所櫓(上記)・南隅櫓など4棟の櫓は国の重要文化財となっています。
下記のような石碑も建っていました。
天守内部の写真と、最上階からの展望写真ですが、写真の枚数が多くなったしまったため、旅行系サイトの方にて公開させて頂きます事、ご容赦願います。
さて、来た道を戻って、中腹から肱川方面に行ける上記の曲輪を歩いて行きます。
途中、いくつもの曲輪がありました。
そして、肱川のほうへ階段を下がって行くと、同じく重要文化財の苧綿櫓(おわたやぐら)がありました。
大洲城の人柱伝説
宇都宮氏が大洲城を築城していたころ、高石垣を何度積んでも、すぐに崩れたため「これは、祟りに違いない」と言う事になったそうです。
そのため、石垣の下に人柱を立てることになりました。
くじ引きで人柱を決めたそうですが、当時16歳の「おひじ」という娘が選ばれてしまったそうです。
「何か言い残したいことはないか?」と聞くと「他に望みはありませんが、この城下を流れる川に、どうか、私の名前を付けてください。」と言い残したそうです。
そのため、大洲の人々は、おひじの願い通り、大洲城の下を流れる川を「比地川(肱川)」と呼んだそうでする
また、かつて、おひじが住んでいた場所は「比地町」になっており、大洲城の別名も「比地城」と呼ばれる所以になっています。
上記は、逆光ですが、西側の麓から撮影した大洲城です。
三の丸南隅櫓
大洲城の駐車場から南へ210mほど行ったところに、三の丸南隅櫓があります。
この櫓は、1766年の建築で、現存する大洲城の建物では最古のものです。
この三の丸南隅櫓がある所は「お殿様公園」と言うちょっとした公園になっており、旧加藤家住宅も移築されています。
トイレも完備されており、無料駐車場も4台ほどと狭いながらもあります。
下記の地図ポイント地点が、そのお殿様公園(三の丸南隅櫓)の駐車場入口となります。
大洲城の見学所要時間は、三の丸南隅櫓も含めて私の場合で約50分でした。
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