尾張・荒子城(あらこ-じょう)は、名古屋市中川区荒子4-208にある平城です。
最初の築城は戦国時代の1554年とされます。
前田利昌(前田利春)が織田家より荒子2000貫を与えられて築城したもので、尾張・前田家の発祥地である前田城から移転したとされます。
東西約68メートル、南北約50メートルの広さで、一重の堀で巡らされていたと言いますので、館とも言えるでしょう。
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織田家の筆頭家老・林秀貞の与力を努めていた前田利昌には6人の男子がいました。
長男が前田利久で、前田利玄、前田安勝、前田利家、前田良之、前田秀継と続きます。
幼名を犬千代と言った前田利家は、この荒子城で生まれたとも、移転前の前田城で生まれたともされます。
1551年頃、織田信長の小姓として仕え、赤母衣衆の一員に抜擢されました。
1560年、前田利春が死去すると、長男の前田利久(まえだ-としひさ)が家督を継ぎます。
このとき、前田利久は妻・滝川益氏の妹の実家から、前田慶次郎を養子に迎えています。
前田家の家老は奥村永福です。
しかし、前田利久は病弱だったともされ、1569年、織田信長の命により家督は、前田利家が継承することになりました。
このため隠居した前田利久や前田慶次は荒子城から退去したとされます。
槍の又左衞門、槍の又左と呼ばれた前田利家は、その後の活躍が認められて、1574年には柴田勝家の与力として越前・府中城3万3000石となりました。
そして、1581年には、能登一国を与えら、七尾城主23万石となっています。
このとき、兄・前田利久や前田慶次郎も能登に呼ばれており、荒子城は廃城になった模様です。
なお、このときに前田利家は、荒子観音の本堂を再建しています。
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現在、荒子城跡は、富士権現社(天満天神宮)になっており、遺構はありません。
駐車場もありません。
交通アクセスですが、あおなみ線の荒子駅から徒歩20分です。
その荒子駅前のロータリーには、前田利家の銅像があります。
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