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龍泉寺城(竜泉寺城) 短期間しか使われなかった貴重な戦国の城跡

龍泉寺城(竜泉寺城)

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龍泉寺城(竜泉寺城)

龍泉寺城(りゅうせんじ-じょう)は、愛知県名古屋市守山区竜泉寺にある寺院・龍泉寺を使用した平山城で、標高は72.1mとなります。

織田信長の弟・織田信行が、兄の織田信長と争った際、1556年に築城したと言います。
ただし、この地にはもともと「龍泉寺」という天台宗の寺院がありました。

龍泉寺(りゅうせんじ)は、比叡山延暦寺を開いた最澄(さいちょう)が、熱田神宮を参籠した際に龍神のお告げを受け、天台宗の寺院として創建したとされます。
また、龍泉寺は熱田の奥の院とも言われ、熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納した弘法大師の開基ともされています。


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龍泉寺は濃尾平野を望む高台にある景勝地で、庄内川、崖、湿地に囲まれた要害の地でもあることから、砦(城)の立地としても最適です。

龍泉寺城

そのため、戦国時代の1556年、織田信長の弟・織田信行は本拠として龍泉寺に館を構えた模様です。
石山本願寺などのように、寺を移転させて城を築いたりするケースもありますので、日本全国、寺院を城にするのは、特段、珍しい事ではありません。
しかし、城として機能したのは1年未満で、織田信行は清洲城で暗殺され、竜泉寺城も廃城となりましたので、この短期間しか使われなかったと言うのはとても珍しいと言えます。

龍泉寺城

しかし、戦略上でも要所でしたので、桶狭間の戦い小牧・長久手の戦いでも、軍事拠点として一時的に使われています。
1584年、長久手の合戦では、尾張・小幡城に進出した徳川家康を討つべく犬山城から進撃した羽柴秀吉でしたが、夕暮れとなったため、竜泉寺を陣所としました。
龍泉寺境内の一部に「太閤堀」(一夜堀)と呼ばれる空堀がありますが、豊臣秀吉が築いたものとされています。
ただし、徳川家康が小牧山城に入ると、豊臣勢・池田勝入の兵が龍泉寺に火を放って、廃墟としました。

龍泉寺

その後、1598年になって、密蔵院の僧侶・秀純が堂塔を再興しています。
しかし、明治39年(1906年)に放火に遇って、多宝塔、仁王門、鐘楼を除く全てが燃えています。
このとき、焼跡から、慶長小判100枚が発掘され、それを基金の一部として、現在の本堂が再建されました。

仁王門は、江戸時代の初期である慶長12年(1607年)建立された、入母屋造葺きの楼門となっており、国の重要文化財に指定されています。

龍泉寺

東側の竹やぶに空掘が残ってるようです。
また、境内の奥にある日本庭園の横に、模擬天守が建てられています。
模擬天守の形をしているのは宝物館で、龍泉寺の寺宝が多数展示されています。
ただし、日曜・祝祭日のみの開館(午前9時から午後3時)とのことで、訪問時は閉まっていましたのが残念です。
本堂の脇から閉鎖されていて、模擬天守には近づくこともできないため、このページトップの画像を撮影するのが精一杯でした。
有料エリア?となる、模擬天守の展望台からの景色は素晴らしいようです。


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龍泉寺と聞くと、どうしても、龍泉寺の湯(日帰り温泉)が頭をよぎりますが、ゆとりーとライン・小幡緑地駅から徒歩10分で龍泉寺となります。
参拝者用の駐車場が利用可能です。
駐車場の場所は当方のオリジナル地図でもわかるようにしてあります。
見学所要時間は10分~20分といったところでしょうか?

それにしても、龍泉寺に着きましたら、竜泉寺城の湯の「例の音楽」を口ずさんでしまうのは、私だけでしょうか?

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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