岡山県

経山城 城主の中島元行はなかなかの策士だったか?

経山城

経山城(きょうやま-じょう)は、京山城とも呼ばれる標高は373m、比高は310mと結構な山城です。

大内義隆が戦国時代1542年に、月山・富田城を攻める際の、備中の守りの拠点とするため、1542年に築城したとされています。
経山城主としては二階堂氏行(中島氏行)が入りました。
しかし、1543年、大内勢が月山富田城の戦いで大敗したため、播磨・白旗城主である赤松晴政の命を受けた備前・天神山城主の浦上宗景と、宇喜多興家が経山城を攻めています。
ただし、室町幕府将軍・足利義晴から細川氏綱・三好長慶への追伐令が下ったため陣を引き上げました。





中島家の先祖は鎌倉幕府御家人の二階堂行政で、二階堂を称していました。
しかし、室町幕府10代将軍・足利義稙の近侍であった二階堂大蔵少輔政行が、1509年に大内義興に従うよう命じられ、岡山県浅口郡片島(岡山県倉敷市)に住みました。
そして、岡山県浅口郡片島の中島を本拠としたため、中島と名を変えたと言います。

その後、中島政行・中島氏行・中島輝行・中島元行と4代にわたって続いていますが、中島輝行のときには毛利家に臣従しています。
中島輝行は、備中・松山城主の三村元親に味方した、1567年の明禅寺城の戦いにて討死しました。

城主の住居は、幸山城の北方となる総社の地・賀陽郡刑部郷小寺村(岡山県総社市小寺)にあったようですので、小寺中島公園になっています。
このように刑部郷(おしかべごう)の経山城は詰の城と言うことになりますが、結構、離れている(遠い)と言う印象です。

中島元行

元亀2年(1571年)尼子再興軍が備中へ入ってくると、経山城主・中島元行(中島大炊助元行)が籠城しています。

尼子再興軍が攻め寄せた際には、毛利家に従っており、大友宗麟と抗戦にて九州に遠征していた小早川隆景に援軍を要請しています。
このとき、中島元行はなかなかの策士で、当初は、尼子勝久山中鹿之助らに降伏する意思を表明して、大きな攻撃を避けていたようです。
しかし、騙されたと気がついた尼子再興軍は1万にて攻撃をしました。
このとき、中島元行は夜間に尼子の陣に忍び込むと、火を放ったため、尼子勢は合計376の首級を討ち取られ、佐井田城に逃れたと言います。

清水宗治の叔母とされる中島元行の母は、鎖帷子(くさりかたびら)に身を包み、太刀・薙刀を両手に持って女中らと、昼夜問わず城中を見回り、城兵には飯や酒を配っては士気を高めたとも伝わります。

天正10年(1582年)、羽柴秀吉が備中・高松城を取り囲むと、妻が清水宗治の娘であった中島元行は、副将として高松城にて籠城しました。
しかし、水攻めを受けて清水宗治が自刃し、経山城は宇喜多家の延原土佐守に与えられましたが、後に廃城となったようです。

その後、中島元行は清水宗治の嫡子・源三郎(清水景治)の後見を努めました。
清水宗治からあとの始末と妻子の面倒をみてほしいと説得され、切腹するのを諦めたと伝わりますので、信頼おける武将だったのでしょう。

毛利家が豊臣家に屈したあと、小早川隆景が筑前・名島城に移ると、清水五郎左衛門(清水景治、源三郎)と中島元行と、嫡男・中島義行は小早川家の家臣に加わっています。
朝鮮の役では中島元行の嫡男。中島治左衛門が戦功を上げています。
しかし、小早川隆景が死去して、小早川秀秋となると、山口玄蕃頭と仲が悪く、中島家は勝手に備中へ帰ったと言います。
これが豊臣秀吉の怒りをかい、小寺の地から出してはならないと命じられ、苦難の日々が続きました。

豊臣秀吉が没すると、小早川家を退去して、清水景治は毛利輝元に仕え、中島元行・中島義行は、小寺村にて帰農しました。
ただし、中島元行は客人として毛利秀就に招かれ、中国兵乱記を記載すると、山口で没したとも言われています。

また、中島義行は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのあとに、結城秀康に仕官しています。





経山城への交通アクセスですが、これまた結構、不便です。
鬼ノ城駐車場に停めて、道を戻ること600mで、登城口(登山口)となります。
駐車場の手前で唯一民家があるところがその登山口で、民家から少し山道を下った所に経山城への道標の石碑があります。
そこから、約20分ほどの登山となるようです。
なお、登城口付近は道も狭いので、クルマは止めるのはオススメできません。
すなおに、離れたところにある鬼ノ城の駐車場を利用したいところです。

山頂付近には少し石垣も残されているそうです。

経山城

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