岡山県

備中・福山城 20万対1500で合戦になった城

備中・福山城

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備中・福山城とは

備中・福山城(ふくやまじょう)は岡山県総社市清音三因(きよねみより)にある連郭式山城で、国の史跡に指定されています。

通常「福山城」と申しますと、天守も復元されている広島県福山市の福山城が有名ですが、あちらは「備後」でして、今回、ご紹介するのは備中の福山城となります。

備中・福山城は、標高302mの峰を持つ福山に築かれていますが、奈良時代から山岳寺院「福山寺」がありました。
報恩大師が山上に福山寺と十二坊を建て、伽藍が全山に並ぶほど繁栄していたと言います。


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鎌倉時代末期の建武2年(1335年)に、荘兼祐(庄兼祐)が、その山岳寺院を改造して城郭に仕上げましたが、築城したのは真壁是久ともされています。
すぐ隣に位置する初代の幸山城主であった庄資房の母は、真壁是久の娘ともされます。

備中・福山城は一の段、二の段、三の段となっており、一の段と二の段の間には、城門跡の石垣があるほか、空堀、石列、井戸跡などがあると言います。

この頃、鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇の建武の新政に協力するも反旗を翻し、足利尊氏は九州に逃れていました。
そして、1336年2月、九州に逃れていた足利尊氏は、再起を図り30万とも言われ味方をつけて、京へと進軍を開始します。
光厳天皇から新田義貞追討の院宣を、鞆の浦で受けて大義名分を得た足利尊氏は、自らは水軍7500隻を率いましたが、足利直義の軍勢20万は山陽道を進みました。

その山陽道の押さえとなるのが、幸山城とこの備中・福山城と言う事になりますが、幸山城主の庄資房は、足利尊氏に追われた北条仲時と一緒に自害したと伝わりますので、庄氏からすれば足利尊氏は仇(かたき)となります。
また、後醍醐天皇に属した新田義貞の先鋒である大井田氏経(おおいだ-うじつね)は、備前・三石城などを攻撃していましたが、足利尊氏の東上を阻止すべく備中・福山城に1500で入ったとあります。

このあたり、荘兼祐(庄兼祐)を大井田氏経が攻撃したとするものもあり、正直に申し上げて、ハッキリと経緯がよくわかりません。
庄資氏は、足利尊氏の挙兵に呼応したため、大井田氏経に備中・福山城を攻撃されて奪われたともあります。


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いずれにせよ、足利直義が率いた足利勢20万は、僅か1500で籠城した大井田勢の備中・福山城を三日三晩続けて攻撃したようです。
福山合戦ととして物語「太平記」に掲載されています。
最初、足利勢は2万とも言う死傷者を出したと言いますが、備中・福山城は落城しました。
大井田氏経(大井田式部大輔氏経)は400名ほどで足利勢の囲みを突破して、20回以上の追撃戦を交わしながら、備前・三石城へと逃れたと言います。

この福山の戦いの7日後には、楠木正成が討死することになる、湊川の戦いになっています。

そして、この合戦のあと備中・福山城は、廃城となったようで、北の低いところの峰にある幸山城(高山城)が使われました。

幸山城(高山城)と備中松山城

現在では、多くのハイカーに親しまれているようで、ハイキングや山歩きコースも整備されているそうです。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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