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川之江城(かわのえじょう)は、愛媛県四国中央市川之江町の鷲尾山(城山)にあり、別名は仏殿城と呼ばれる標高約60mの山城(平山城とも)です。
川之江城(仏殿城)
最初の築城は、南北朝時代で、南朝に味方した伊予守護・河野通政の支城のひとつとして、讃岐守護・細川氏の侵攻に備えるべく、土肥義昌(とい-よしまさ)が1337年に仏殿城(川之江城)を築いたとされます。
築城に際して、恵心僧都開基の仏殿と仏像を城内に運び、武運長久を祈願したため仏殿城と呼ばれました。
新田義貞の弟・脇屋義助が、河野氏と細川氏の調停役として派遣されますが今治国分寺にて急死すると、1342年に細川頼春(ほそかわ-よりはる)が7000攻撃します。
金谷経氏の水軍による援助を受けて、僅か数百の土肥義昌は10日ほど奮戦するも討死し、仏殿城(ぶつでんじょう)は落城しました。
城山の東裾(仏法寺の西側山麓)には、土肥義昌の墓所もあるとの事です。
伊予衆の残存は、広島の鞆の浦に流れ着き、岡部出羽守が大可島城を築いたとされています。
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1364年と、1379年にも川之江城は落城しています。
戦国時代の仏殿城主としては妻鳥友春・妻鳥采女(うねめ)の名が、河野氏の配下として見られます。
妻鳥采女は、1572年に宇摩の細野城主・薦田大和守から攻撃を受けていますが、金子山城主・金子元宅(金子備後守元宅)と、土佐の長宗我部元親に寝返りました。
阿波の三好長治による攻撃は防ぎますが、1574年、河野通直の家臣・河上安勝によって攻められて、落城しました。
その後、仏殿城には河上安勝(河上但馬守安勝)が入っています。
しかし、土佐の長宗我部元親の進出を受けて、1582年に、河上安勝は城を焼いて自害しました。
姫ヶ嶽
なお、河上安勝は家臣・秋山嘉兵衛の裏切により、轟城主・大西備中守の急襲を受けて誘殺されたともあります。
川之江城に登っていく道路の途中に案内板がありました。
この時、河上安勝の娘・年姫が、崖から身を投げたとされる場所は「姫ヶ嶽」と呼ばれており、与謝野晶子が下記のように詠んでいます。
姫ヶ嶽 海に身投ぐる いや果とも
うまして入りぬ 大名の娘は
河上但馬守と年姫の墓所は、仏法寺境内にあるとの事です。
豊臣秀吉の四国攻めの際には小早川隆景によって落城しておりますが、伊予街道、讃岐街道、土佐街道、阿波街道が交わる要所だけに何度も攻撃を受けた城と言えます。
その後、小早川家、福島家、池田家、小川家と、川之江の領主は変わりますが、1600年からの加藤嘉明のときに川之江城は廃城となりました。
なお、一柳直家が1636年に28600石にて川之江藩主となった際には麓に陣屋を設けていますが、川之江城を再建しようとも考えたようです。
しかし、僅か6年後の1642年に死去したため、領地が没収されます。
そのあとは、幕府天領となり、川之江が昔から生産している「紙」で栄えたと言いますが、ついに川之江城は再築されませんでした。
現在の三層天守などの建物は、昭和61年に川之江市制施行30周年記念事業として、模擬復元されたものとなります。
天守閣の4階部分からの展望は良く、瀬戸内海などを一望できます。
川之江城には涼櫓(すずみやぐら)も復元されています。
城山公園として整備されており、春には桜の名所として多くの観光客も訪れるとのとこです。
天守への入場は有料で、大人100円、小学生・中学生は50分。
開館時間は朝9時~16時で、月曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始はお休みです。
しかし、工業地帯が近くに見える城も珍しいです。
観光所要時間は城だけでしたら、駐車場から20分~30分といったところです。
アクセス
川之江城(仏殿城)への行き方ですが、JR四国の川之江駅から山頂まで徒歩で20分ほどです。
ただし、山ですので登り坂があります。
無料駐車場が山の上の方に10台ほどありますが、道はかなり狭く、対向車が来るとすれ違いギリギリといった感じですので夜間(17時~翌朝8時30分)は車両進入禁止です。
麓の讃岐街道からそれて入っていくのですが、ちょっと、分かりにくいですので、当方オリジナルのGoogleマップをカーナビ代わりにご活用いただけると良いかと存じます。
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