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相模・玉縄城とは
玉縄城(たまなわじょう)は現在の神奈川県鎌倉市、大船駅近くにある平山城です。
甘縄城とも呼ばれます。
最初の築城は、戦国時代に入って小田原城主となった北条早雲(伊勢盛時)とも言われてますが、恐らくは、ずっと前から砦としての機能はあったと推測致します。
1512年頃、三浦半島の新井城(荒井城)の三浦義同を攻撃する際に、北条早雲は玉縄城を整備しました。
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その後も、玉縄城は重要拠点であり、北条氏時、北条為昌、北条綱成、北条氏繁、北条氏舜、北条氏勝と北条一族が城主を務めています。
徳川家康が江戸城に入ると、徳川家の知恵袋である本多正信が玉縄城主となりました。
江戸時代には、玉縄藩主として、松平正綱、松平正信、松平正久と言った、やはり徳川一門の名が見受けられます。
玉縄城跡の本丸と推定されている部分は、現在、女子高(清泉女学院中学校・清泉女学院高等学校)があり「立入禁止」となっています。
勝手に入れば不法侵入ですので、ある意味、現代における「難攻不落」の城跡ですが、下記の太鼓櫓跡は公園整備されています。
城の周りは斜面にもいくつもマンションが建ち、住宅街となっていますので、昔の面影はわずかしか残っていません。
昔から防衛用の砦があったものと推測されていますが、1513年頃、北条早雲(伊勢盛時)が新井城の三浦義同を攻めた際に、扇谷上杉家の上杉朝興が三浦氏を救援するのを妨害するため、玉縄城を改修して本格的な城としました。
初代の玉縄城主は、北条氏綱の弟・北条氏時が配されていますので、北条家にとってはかなりの重要拠点であったことが分かります。
玉縄城の外堀が柏尾川と繋がっていて、船で相模湾まで出ることも可能だったともされています。
1526年、安房の里見義豊が鎌倉に乱入した際には、玉縄城下の戸部川で迎撃したと言われています。
北条氏時が1531年に急逝すると、北条氏綱の子・北条為昌が玉縄城主となりましたが、まだ12歳と若年であったため、大道寺盛昌や北条綱成などが玉縄城に入って補佐しました。
その北条為昌も天文11年(1542年)に23歳で亡くなると、長く城代として補佐していた北条綱成が、北条為昌の養子となり、3代城主になりました。
その後、玉縄城は、北条綱成の子・北条氏繁、北条氏舜、その弟・北条氏勝と継承され「玉縄衆」を率いて北条家の主力として関東制覇に貢献しました。
下記の辺りは、玉縄城の本丸直下にある「七曲り坂」です。
その七曲りからの展望は下記のとおりです。
下記は玉縄城の東側にある、歴代玉縄城主の菩提寺「龍寶寺」となります。
龍寶寺の境内には玉縄城の資料館なども併設されております。
交通アクセス
玉縄城へのアクセス・生き方ですが、玉縄城の南側にある「コーナン・鎌倉大船店」があり、駐車場(タイムズ90分無料)が利用できます。
そのコーナンから散策すると、観光所要時間は約40分~60分といったところです。
太鼓櫓跡は山のうえですので、若干、坂道は覚悟が必要ですが、そんなにキツクはありません。
下記の地図ポイント地点は、玉縄城・太鼓櫓跡となります。
結構、歴史的には重要な城跡なのですが、遺構の多くが失われており、なおかつ、自由に散策できないのは残念です。
お時間がある場合には、玉縄首塚や、相模・長尾城もセットでどうぞ。
この記事は当方の戦国武将列伝の記事を再編集したものとなります。
・玉縄城の戦い【玉縄首塚】鶴岡八幡宮の戦い~戦国時代の里見氏X北条氏
・北条早雲【詳細版】戦国時代の幕開け~北条早雲の生涯
・相模・長尾城(長尾氏館)~長尾定景・長尾景茂「上杉謙信ご先祖様発祥地」
・亀山城から本能寺の変は始まった~亀岡城訪問記(丹波亀山城)
・上田朝直と武蔵・松山城の歴史~上杉/武田/北条/豊臣と何度も攻撃された松山城
・小机城の訪問記~横浜市で一番見応えある平山城
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