熊本県

人吉城 日本100名城にも選出されている石垣などが立派な城

人吉城

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人吉城とは

人吉城(ひとよしじょう)は、鎌倉時代に源頼朝に仕えた遠江国相良荘の相良長頼が、1205年に地頭として人吉荘に赴任して以来、長きにわたり在城することになった名城です。
別名は繊月城、三日月城、相良城とも言いますが、国指定史跡となっており、日本100名城にも選ばれている立派な城跡となっています。

人吉城

相良長頼は最初、源頼朝には協力しなかったため、追放されていますが、のちに許されて復帰し、二俣川の戦いで手柄を立てたため、人吉荘を与えられました。

人吉城

この時、平頼盛の家臣・矢瀬主馬佑が人吉城を構えていましたが、反抗したため相良長頼が鷹狩りに呼んで誅殺し、その後、人吉城に入ったと言う事になります。

人吉城

別名を繊月城、三日月城、相良城とも言い、日本100名城にも選定されている平山城で、標高140m、比高40mです。
人吉城跡は国の史跡にも指定されています。

人吉城

室町時代の文安5年(1448年)には下相良氏の相良長続が上相良氏を滅ぼして球磨を統一。
更に肥後国守護の菊池氏により八代と葦北の占有・保持を許されて、球磨・八代・葦北三郡の統一に成功し、相良義滋が現われると八代・古麓城を居所とし戦国大名化を果たしました。

人吉城

1493年に制定された相良家法度「相良氏法度20か条」や「晴広式目21か条」は、相良晴広の時代に分国法として制定されたものです。
ただし、相良家が発案したものではなく、領主たちが起草したものとして有名です。
人吉藩では、幾つかの条項を除き、江戸時代まで用いられました。

人吉城

家督継承問題が発生した大永6年(1526年)7月14日、日向真幸院の北原氏が突如として現れて、人吉城を取り囲んでいます。
これは、人吉城が他家から攻められた唯一の戦いとなりましたが、当時の相良義滋(相良長唯)は策を用いて北原氏を追い返しました。

人吉城

「明日の朝、伊東家から援兵が来るのからその上で一戦交える」と場内から北原勢に呼びかけると、その夜、皆越貞当に命じて、沿道にも点々と篝火を残し、100名ほどの手勢も松明を手にして、援軍が駆けつけたように見せかけたと言います。
これにより、北原勢は狼狽して潰走したと言いますので、相良家は昔から策士の傾向があったようです。

人吉城

なお、相良頼房(相良長毎)は1589年には、豊後より石工を集めて石垣設置を始める人吉城を改修開始した模様です。

人吉城

その後、は相良頼房(相良長毎)は、1614年の大坂冬の陣には兵を出していませんが、大阪夏の陣には出陣しています。
しかし、島津家同様に、戦闘はすでに終わっており、戦いには加わっていません。

人吉城

その後、1617年、相良頼房は嫡子・長寿丸を連れて駿府城を訪問すると徳川家康に拝謁し、江戸城でも徳川秀忠に会っています。
このとき長寿丸は相良頼尚と名を改め、自身も初代相良氏である先祖の名にちなみ相良長毎と改名しました。

人吉城

1620年、椎葉山騒動でも功績があり、椎葉村一帯が天領となると、その管理と実質的な支配を相良藩が任されました。

人吉城

1632年、相良頼房は大垣城で殺害した相手と石田三成の追善供養を、犬童頼兄に命じており、人吉にある菩提寺の願成寺には石田三成らの供養碑(下記写真の一番右が石田三成の墓)が設置されています。

石田三成らの供養碑

寛永13年(1636年)6月13日に相良頼房(相良長毎)は死去しました。享年63。

相良義陽の正室の墓

家督は長男・姶良頼寛が継ぎ、中断したりしていた人吉城の工事は1639年の完成を見て、現在に残る近代城郭になりました。

人吉城

下記は二の丸から見た本丸です。

人吉城の本丸

下記はその本丸への登り口となります。

人吉城の本丸

人吉城に天守はなく、本丸には天守の代わりとして2層の護摩堂があったそうです。
本丸はそんなに広くはなかったですが、2万石としてはまぁ、このくらいと言った感じです。

人吉城の本丸

北側の石垣に人吉城の特徴でもある「武者返し」があります。
下記写真の石垣の上部に屋根みたいな石がありますが、これは西洋式の工法で、石垣の下からの延焼防止がその最大の目的ですので、江戸末期に改修された石垣となります。

人吉城の武者返し

なお、人吉城の南東にある背後には、旧人吉城とでもいうべき「原城」が隣にあると言って良いです。
この原城は、人吉城の3倍ほどの大きさがあり、原城も含めると2万石程度とは思えない、巨大な城郭にもなるので、大軍を持って籠城する事も可能な設計になっているのも素晴らしいです。
下記は人吉城の二の丸からの眺めで、下部に写っている平坦地三の丸となります。とても綺麗に整備されています。

人吉城からの展望

1637年、天草四郎島原の乱では、藩主・相良頼寛が参勤で江戸にいたため、相良頼兄の子・相良頼安(相良内蔵助)とその子・相良頼章(相良喜兵次)が、名代として出陣・指揮しています。

人吉城の二の丸

しかし、これだけでおさまらないのが、相良家で、ほんとオモシロイ大名家です。

相良清兵衛屋敷

人吉にあった犬童頼兄の屋敷「相良清兵衛屋敷」跡は、現在「人吉城歴史館」が建っています。
その資料館の中で「地下室」が当初の形に復元され、上から覗き見ることができます。
ただし、館内は写真撮影が一切禁止と言う事で、お写真ではご紹介できません。

なお「地下室」は屋敷内にあった2階建ての「持仏堂」があった場所と確認されており、地下室に降りる石積みの階段と踊り場、長方形の井戸、黒い小石敷き、その下にスギ板が敷かれていた事が解明されています。
これとほぼ同じ構造の地下室が、嫡子・犬童頼安の屋敷にある蔵の位置からも発見されているとの事です。

世界的にも、重臣の屋敷に井戸を持つ地下室があるのは例がないそうですが、地下室が作られた目的はいまだ解明されていないとしています。

私が拝見した印象から推測致しますと、まず建物の中、しかも地下に命の水を確保している事から、カギを掛けて厳重管理できますので、毒を入れられるのを防止する役割と、屋敷を急襲された際の緊急避難場所、隠れる場所としても、地下室を設けたのではないかと小生は感じました。


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例えば、四国の松山城では、大名の屋敷ではありますが、大きな地下構造の井戸水場があります。
この松山城の設備としては、台所で使用する上水・下水と言う意味合いが強いと存じます。
犬童家の地下室にある井戸は、水の手の確保と言う意味合いが強いように感じられますので、例えば、ある程度の食料も備蓄していれば、この中で何週間も生き延びることが可能です。
敵対する藩士も多かった犬童頼兄ですので、それだけ警戒をしていたのかな?と言う気が致します。

ちなみに、屋敷は田代半兵衛(犬童半兵衛)が反乱を起こした際に、この屋敷「お下屋敷」に立て籠もって戦ったため、その時に焼失したとあります。
下記は「御下の乱供養碑」で、人吉歴史館から西側に行った白い塀の脇に建っています。

御下の乱供養碑

なお、人吉藩では、その後、何度もお家騒動を起こしているのですが、それでも、しぶとく、取り潰しを免れていると言う点は、非常に珍しく感じます。

明治に入ると、西南戦争の際に西郷隆盛の薩軍が、人吉城の三の丸に大砲を配備して、球磨川対岸に位置した官軍と戦いました。

人吉城

その戦火によって、人吉城の建造物はほとんどが焼失しました。

人吉城

武家蔵(武家屋敷)

人吉医療センターの南側道路向かいに「武家屋敷」が残されています。

人吉の武家蔵(武家屋敷)

この武家屋敷の門は、人吉城跡から移築した堀合門となっています。

人吉城・堀合門

奥にある御仮屋は江戸末期に移築されたものとの事で、西南戦争の際に、西郷隆盛が宿舎として使用されました。
しかし、訪問させて頂いた日は休館日で、敷地内には入れませんでしたので、門の写真だけで申し訳ありません。

武家蔵(武家屋敷)は、門の左脇に2台ほどの狭い駐車場がありました。

交通アクセス

さて、人吉城跡へのアクセス・行き方ですが、JR人吉駅からだと徒歩20分ほどとなります。

人吉城

人吉駅の観光案内所では、電動レンタサイクルの貸自転車もあります。

人吉城

人吉城の見学観光時間ですが、麓から本丸までの往復でしたらざっと30分といったところです。

人吉城

人吉城は建物こそ、まだ、そんなに復元はされていませんが、雰囲気も良く、適度に登りやすい平山城ですので、なんか久しぶりに城攻め(城訪問)を楽しめました。

無料駐車場がある場所ですが、当方のオリジナル九州地図にて、わかるようにしてあります。
人吉城を見学される場合には、一番最初に人吉歴史館を見学して、簡単なマップと予備知識を得てから城を周ると良いです。


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2020年7月4日、集中豪雨により球磨川(くま-がわ)が上流から下流までの全域にて氾濫し、人吉の街中や肥薩線なども大きな被害となりました。
令和になってからと言うもの、更に災害・感染病など、日本人は、とても試練を与えられており、人吉の被害も心が痛みます。
甚だ些少で恐縮ですが、大雨災害への緊急災害支援募金にもご寄付させて頂きました。
被害を受けられた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
一日も早い復旧と、みなさまのご健康をお祈り申しあげます。

この記事は戦国武将列伝Ωの記事を再編集したものとなります。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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