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相模の小沢城
神奈川県の相模原側から見ると、水郷田名「高田橋」(相模川)の向こう側、愛川町側にある相模川のすぐ横にそびえる標高80mの山(比高20m)が小沢古城です。
のちの世に、すぐ近くにできたとされる小沢城と区別する為、小沢古城(下記写真)と呼ばれています。
鎌倉時代初期に相模国北部まで支配していた八王子の横山党から出た一族、小沢氏の居城が始まりとする説があります。(諸説あり)
相模川の東に当たる現在の相模原市田名には同じ横山党一族の田名氏が居住していました。
その後、小沢城には村山党の金子氏が入ったようですが、鎌倉後期か平安時代に小沢を領すると、戦国期に入ってから小沢古城・小沢城を築いたと考えられます。
この相模原市の田名と、愛川町の小沢の間には、相模川が流れていますが、この間は古くから「小沢の渡し」と呼ばれており、交通の要所でした。
上記写真と地図ポイント地点は小沢古城で、下記の写真と地図ポイント地点はその後に新築したとされる小沢城です。
室町時代初期、相模国東部は関東管領・扇谷上杉家(上杉氏の宗家は山ノ内上杉氏、山内上杉氏)が支配するところとなっていました。
しかし、1477年、扇谷上杉氏の家臣だった長尾景春が、扇谷上杉氏の家宰(執事)であった太田道灌の駿河出張中に、主君に対して反乱(長尾景春の乱1467年~1480年)を起こします。
その際、同じく山内上杉家の家臣だった、相模の国人衆の多くも長尾景春に味方しました。
その中の金子掃部助(かねこかもんのすけ)も長尾景春に味方して「小沢というところに要害を築いた」との文献が残っています。
これが、小沢古城だと推定されている次第です。
小沢古城は東側が相模川沿いの崖になっており、周囲も急峻な独立峰となっていますが、規模的には小さく、井戸もなかったようなので、戦国時代には使われなかったと推定できます。
水は相模川にロープで桶を落として、汲んでいたとも考えられています。
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江戸城にいた太田道灌は、1477年、謀反を起こした石神井城を夜討しようと画策しますが、味方の相模勢が多摩川増水により、渡河できず断念しました。
そのため、直ちに矛先を変えて、相模国で長尾景春についた諸将を掃討する作戦に出ています。
太田道灌は相模勢と合流して、金子掃部助が守る小沢城は1477年1月?に攻撃しました。
恐らく、太田道灌は、相模川対岸の高台である田名氏館跡付近に本陣を置いたのだろうと推測できます。
この時小沢城(小沢古城?)は相模川に面した山と難攻不落の堅城であったとあり、約2ヶ月間(1ヶ月間?)も篭城したとも言われています。
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その為、太田道灌は長期戦に備えて、河越城に甥の太田資忠と上田上野介、江戸城には上杉朝昌(太田道灌の主君上杉定正の弟)と三浦高救(上杉定正の兄)、吉良成高、大森実頼、千葉自胤を入れて武蔵の守り固めました。
太田道灌は3月18日に厚木の溝呂木城を攻め、溝呂木正重は城に火を放って逃亡しています。
また、小磯城(中郡大磯町)の越後五郎四郎も降伏させました。
小沢城では長尾景春党の宝相寺・吉里宮内勢が小沢城を後詰し、その間、太田道灌は扇谷上杉氏の小山田城(町田市)を攻略します。
ただし、後詰したのは小沢城へではなく、長尾景春側の吉里宮内、実相寺らは小山田城を攻略して太田道灌を牽制したとする説もあります。
しかし、ついに1477年4月18日、小沢城は落城しました。
名将・太田道灌に敗れた金子掃部助は討死?したと言う説もありますが、生き残って、翌1478年、金子掃部助は再度、小沢要害に立て籠もり、長尾景春方の拠点・小机城の陥落に伴って、自落したと言う説もあります。
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小沢古城より南東約150mに位置した標高119mの場所を小沢城とする記録があり、小沢の地に城が2つ存在したことになりますが、歴史的区別や役割などはハッキリしません。
私は小沢古城こそが小沢城だと考えていおり、小沢古城も小沢城も同じ山城を指すのではないかとも、考えます。
ただ、小沢要害は難攻不落と言う事もあり、小沢古城の事だと考えるのが妥当かも知れません。
なお、多摩川に近い武蔵・小沢城と混同しやすいので注意が必要です。
上記写真は、新しい方とされる小沢城の館があったと推定される台地(標高120m)ですが、城跡と受け取れるような遺構はみつかりません。
津久井から愛川町半原のあたりは、古く「奥三保」と呼ばれ、長尾景春の乱で敗れた相模国の残党が奥三保に隠れました。
翌年1478年、太田道灌は村山に陣取り、舎弟の太田図書助と同六郎を大将として奥三保の残党を攻撃しています。
郡内小山田氏の分家である上野原の加藤氏を含む残党は、甲斐まで追いやられました。
なお、この際、磯部城はこの時小沢城の支城として築城開始されていたようです。
しかし、未完成のうち、翌1478年、太田道灌の攻撃により落城したと考えられています。
名将・太田道灌は、農兵(雑兵)を組織化すると言う軍事革命を起こし、戦では圧倒的に強かったようです。
ただし、その能力が主君をこえていたので、しばしば問題を起こし、1486年ついに主君・主人上杉定正に暗殺されました。
秦野で命を落としたと言われています。
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長尾景春の乱の後、金子氏は北条氏の支配下となっても小沢の土豪として存続しており、小沢古城の要害性に加え、小沢古城より南東約150mに位置した標高119mの場所は、東面の相模川面こそ絶壁ですが、北面・西面・南面からの防御は弱く、とても城を築いたとは考えられません。
その為、平和な時代がやってきて、地域支配に便利な新しい「小沢城」と言うよりは「館」を築いたと考えると理解しやすいです。
小沢城は小田原北条時代にも改修されたようで、小田原北条氏特有の遺構が認められると言いますが、史実にでるほど重要に城ではありませんでした。
しかし、有鹿姫伝説など、落城秘話も残されています。
現在では、毎年夏に対岸の水郷田名で花火大会が実施され、小沢古城を挟んで大きな花火8000発が轟音と共に打ち上がる風景が見られます。
繰り返しになりますが、稲城市にも同名の小沢城がある為、古い文献では稲城の小沢城と混同しやすいので注意が必要です。
鎌倉時代、源頼朝の重臣・稲毛重成の子である小沢小太郎は稲城の小沢城が居城だったと考えられます。
なお、1559年の戦国時代には、北条家の津久井衆に、小沢で10貫文を知行した金子新五郎と言う武将の名が見受けられますが、館がどこだったのかは不明です。
小沢古城と小沢城の見学
小沢古城は急峻な独立峰だが、一応は還浄寺の脇から登城することが可能になっているようです。
しかし、かなりのヤブ状態との話もあり危険が伴う上、遺構としてもそんなに見どころもないようなので、小生は遠慮させて頂いています。
一方、小沢城の方は愛川工業団地がある台地の先端ですが、こちらも遺構と言えるものはないようです。
しかし、麓の県道65号の登り坂の途中から、旧道と考えられる狭い道が、小沢城への坂道だと考えられています。
小沢古城と小沢城の両方を見る場合には、下記の地図のポイント地点にある相模川河川敷の無料駐車場が便利です。
なお、新しい方の小沢城だけを見るのであれば、台地上にある、スーパーアルプスの駐車場に止めて、歩いて5分といったところです。
・小沢城主の娘・有鹿姫(あるかひめ)~相模国の伝説のお姫様
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