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尾張・岩倉城とは
岩倉城(いわくら-じょう)は尾張の上四郡を支配した織田伊勢守の居城で、五条川に面した台地の上に築かれていました。
五条川は濃尾平野の中央部を流れており、幾多の氾濫にさらされていますが、犬山城の南部にある楽田城の近辺から小口城の東岸を抜け、織田信長(おだ-のぶなが)の愛妾で、織田信忠(おだ-のぶただ)らの生母である生駒吉乃(いこま-きつの)の実家である生駒屋敷の脇を流れて岩倉城へと至り、下流に目を向けると清州城の眼下を抜けて伊勢湾に流れ込んでおり、陸上輸送の手段が人力か荷車しか無かった当時、大量物資の輸送は船舶を利用した物となり、五条川を含めた河川流域が発展を遂げていました。
現在城跡は宅地開発の影響などを受け、遺構は残っていませんが、県道166号線の南側に『岩倉城跡』と『織田伊勢守城址』の碑が建てられています。
歴史
応永元年(1394年)室町幕府3代将軍足利義満(あしかが-よしみつ)は将軍職を嫡男の足利義持(あしかが-よしもち)に譲り、実権を掌握したまま太政大臣となりますが、翌年の応永2年(1395年)には太政大臣を辞して出家をします。
出家した足利義満は京の北側で北山鹿苑禅寺(金閣寺)の造営を始め、諸大名に人夫を供出するように求めますが、九州探題の今川了俊(いまわがわ-りょうしゅん)に従い九州の南朝方の武将を征伐し、その功績によって周防、長門、和泉など6ヵ国の守護を得て、強大な勢力を持つ大内義弘(おおうち-よしひろ)は「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれを拒否。
年末になると大内義弘は少弐氏討伐を命じられますが、その裏で足利義満が少弐氏と菊池氏に対して大内義弘を討つよう連絡を取っていたと言う噂が立ち、幕府との対立が激化。
追い込まれていった大内義弘は、九州探題を解任され遠江と駿河半国の守護に左遷された今川了俊、尾張守護代であった土岐詮直(とき-あきなお)などと語らい挙兵します。世にいう応永の乱です。
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大内義弘は堺に城を築いて籠城策をとりますが、3万を数える幕府軍の攻撃を受け討ち死にを遂げました。
今川了俊は守護職を取り上げられ、甥の今川泰範(いまがわ-やすのり)が跡を継ぎますが、その6代後胤に今川義元(いまがわ-よしもと)が出ています。
土岐詮直は敵対していた美濃守護で同族の土岐氏との闘いに敗れ敗死。
尾張国は幕府方として参戦して功を挙げた斯波義教(しば-よしのり)に与えられます。
斯波義教は足利幕府創設に尽力し、管領として幕府を支えた斯波義将(しば-よしゆき)の嫡男で、元服した当初は斯波義重(しば-よししげ)を名乗っていましたが、足利義満の寵愛を受けてその猶子となり名を改めており、本願地の越前に加えて尾張の世襲守護が確立され、同時期に当時の尾張守護所であった下津城(おりづ-じょう)の別郭として清州城を築城し、勢力を拡大していきます。
斯波義教は応永9年(1402年)尾張守護代であった甲斐将教(かい-まさのり)を更迭して、越前織田荘の荘官である織田常松(おだ-じょうしょう)を呼び寄せて尾張の守護代とします。
この織田常松が戦国時代に尾張一帯を支配した尾張織田氏の祖にあたる人物で、直系は織田常松の受領名の伊勢守となり、弟の織田常竹(おだ-じょうちく)を祖とする大和守家の流れを除き、清州三奉行家などはいずれも伊勢守家直系の分家となります。
応永17年(1410年)足利幕府の重鎮として大きな影響力を持っていた斯波義将が没すると斯波氏は細川氏や畠山氏に押されていき、尾張や越前などの領国は朝倉氏や織田氏などの守護代のが実権を握って行く事になります。
享徳元年(1452年)斯波家の家督を斯波義敏(しば-よしとし)が相続しますが、斯波家に執事として仕え、越前と遠江の守護代を務める甲斐常治(かい-じょうち)と対立。
この対立は、後に幕府の命によって斯波家の家督をはく奪されてしまう斯波義敏と、その家督を相続した斯波義廉(しば-よしかど)との対立に繋がり、応仁元年(1467年)に入ると将軍家や畠山家の家督相続の混乱もあって、幕府を二分する戦いとなる応仁の乱が始まります。
守護代である織田家も斯波義敏に付いた織田大和守家の当主である織田敏定(おだ-としさだ)と斯波義廉を擁する織田伊勢守家の当主、織田敏広(おだ-としひろ)に分かれて争いを始めます。
文明7年(1475年)織田敏広は斯波義廉を伴って下津城に入城し、清州城を本拠とする織田敏定との抗争が激化していく中で、岩倉城は築かれました。
幾多の戦いを経た後、幕府の介入もあって両織田家は和解。清州城を本拠とする織田大和守家は、尾張南部(海西郡・愛知郡)を支配し、織田伊勢守は荒廃した下津城から岩倉城に本拠を移し、尾張上四郡(葉栗郡・丹羽郡・中島郡・春日井郡)を支配する分割統治の時代が始まります。
約80年の間、分割統治が続いた尾張国でしたが、天文年間(1532年~1555年)の終わり頃には織田大和守家に仕える織田信秀(おだ-のぶひで)が徐々に力を付け、海東郡と知多郡を勢力下に置き、織田大和守家は尾張下四郡を支配しますが、弘治元年(1555年)になると織田信長(おだ-のぶなが)が清州城を奪い取り、尾張統一に乗り出します。
翌弘治2年(1556年)織田信長とその弟である織田信勝(おだ-のぶかつ)との間で家督争いが起こり、当時の岩倉城主である織田信安(おだ-のぶやす)は織田信勝に味方をしたため、永禄元年(1559年)には家督争いを制した織田信長は岩倉攻めを決行。
織田信安の後を継いだ織田信賢(おだ-のぶかた)は浮野の戦いで織田信長に敗れ去り、永禄2年(1559年)には2~3ヵ月に渡る籠城戦の末、岩倉城は攻め落とされ、城下町一帯も壊滅したと伝わっています。
交通アクセスと登城
落城後、岩倉城は城下町と共に忘却の彼方へと忘れ去られ、幻の城とされていましたが、昭和62年(1987年)から愛知県埋蔵文化センターによって発掘調査が行われ、二重堀に囲まれた東西90m、南北120m程の規模があり、館や望楼と思われる跡が見つかっている他、多くの出土品が発見されました。
推奨ルート:
※いずれも駐車場は無いため、徒歩での訪問となります。
※公共交通機関を利用する場合の最寄り駅は名古屋鉄道の岩倉駅となります。
岩倉駅→(徒歩10分)→岩倉城跡
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その他関連施設等
・神明生田神社(山内一豊誕生地)
愛知県岩倉市下本町下市場25
山内一豊は黒田城で誕生したと言う説と、岩倉城で誕生したと言う説があります。
・法蓮寺
愛知県一宮市木曽川町黒田勘治西60
・黒田城
愛知県一宮市木曽川町黒田古城26-2
・廣幢寺
愛知県稲沢市下津二本杉町66
境内には織田信賢の墓が建てられてますが、墓碑には下津城主と記されています。
(寄稿)だい
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