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尾張・須佐城とは
須佐城(すさ-じょう)は現在の愛知県知多半島先端の師崎から伊勢湾沿いに約4km程北上した現在の南知多町豊浜に位置した城跡です。
伊勢湾岸沿いに位置する須佐城の眼前は湾曲しており、天然の良港として栄えていました。
徳川幕府3代将軍である徳川家光(とくがわ-いえみつ)の時代、尾張藩では村勢調査に着手し、寛文年間(1661年~1673年)の初め頃に編纂された「寛文村々覚書帳」によると、須佐地区で所有していた廻船は27艘、小舟は18艘となっており、知多半島一帯で廻船の所有数を見ても、中世末期より伊勢湾の湊として繁栄してきた大野の66艘、現代においても酒や酢の醸造などで有名な半田の35艘に次いで所有している船の数は多く、その大半は樽廻船として江戸や大阪を行き来して多くの利益を得ていたと思われます。
歴史
平安時代の末期、尾張一帯は源義朝(みなもと-よしとも)の正妻の実家である熱田大宮司藤原季範(ふじわら-すえのり)の影響が大きく、知多半島南部は、乳兄弟である鎌田政清(かまた-まさきよ)と、その義父である長田忠致(おさだ-ただむね)の支配地域となっていました。
源平抗争が盛んになると、須佐城主である須佐為基(すさ-ためもと)は篠島城主の室賀秋季(むろが-あきすえ)と共に平家の情報を源氏に提供していました。
治承4年(1180年)源頼朝(みなもと-よりとも)が平家打倒を掲げて伊豆で挙兵すると、手勢を率いて海路伊豆へと向かおうとするも、戦いには間に合わずやむなく船を戻す事となりますが、一貫して源氏に与していた事から、源頼朝が鎌倉幕府を開くと須佐の地の領有を正式に認められました。
室町末期、伊勢湾を挟んだ対岸の志摩は伊勢宮領や神宮領、醍醐寺三宝院領などの御厨・荘園が多く存在していましたが、それらの中から地侍して成長して島衆と呼ばれるようになり各地に城を築いて支配していきます。
『九鬼世系』には、小浜の小浜久太郎、楽島の安楽島越中守、浦の浦豊後守、千賀の千賀志摩、的矢の的矢次郎左衛門、安楽の三浦新助、甲賀の甲賀雅楽介、国府の国府内膳正、波切の九鬼弥五郎(九鬼浄隆)、越賀の越賀隼人(佐治隆俊)、和具の和具豊前、岩倉の田城左馬(九鬼澄隆)、鳥羽の鳥羽主水(橘宗忠)の十三人をもって志摩十三人衆と呼んでいます。
これとは別に『北畠物語』には、英虞郡7人衆として、相差方、国府の三浦方、甲賀の武田方、波切の九鬼方、青山方、佐治方、浜島方が記されており、北畠氏の麾下として水軍を率いていたものと思われます。
時代は下り、永正年間(1504年~1554年)頃になると、志摩地頭十三人衆の中でも首1つ抜け出した存在であった九鬼家は存在感を強めていき、佐治氏や千賀氏は伊勢湾を渡り、対岸の知多半島へ領地を求めます。
須佐城はこの頃に千賀為親(せんが-ためちか)の領地となりますが、天文年間(1532年~1554年)頃には大野城を本拠として知多半島西岸に勢力を伸ばした佐治氏の陣代として羽豆岬城に本拠を移し、南知多一帯に勢力を伸ばして行く事になります。
その後、徳川家康に仕えて師崎の地を支配していた千賀氏ですが、天正2年(1574年)織田信長(おだ-のぶなが)の弟である織田長益(おだ-ながます:後の織田有楽斎)が知多郡を支配する事になると、当時の羽豆岬城主である千賀重親(せんが-しげちか)から師崎を始めとした知多半島南部を取り上げて知多半島から追い出そうとしましたが、この話を聞いた徳川家康は、使いを出して織田長益を説得し、千賀氏の領地はそのままとなったそうです。
天正18年(1590年)徳川家康が関東へ入封すると千賀重親はこれに従い、徳川家康の直轄領の中から江戸の喉元ともいえる三浦岬に千石を得て船奉行を務め、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には水軍を率いて輸送任務に従事しました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで勝利した東軍側の武将はそれぞれ加増を受け、清州城主であった福島正則(ふくしま-まさのり)は安芸広島へ移り、尾張の地は徳川家康の四男である松平忠吉(まつだいら-ただよし)を尾張の地に入れますが、知多半島南部などは徳川家康の直轄領にするとして、千賀氏を師崎の地へ戻して一帯を治めさせます。
この時、師崎に入ったのは千賀重親の跡継ぎとして養子に入った千賀信親(せんが-のぶちか)であり、千賀重親は徳川家康の元にいたと思われます。
慶長10年(1605年)松平忠吉に対して加増が行われ、知多半島一帯を与えられました。
この時、清州城の奉行から「千賀信親の領地のうち、須佐と師崎はそのままにするが、篠島、日間賀島、乙方、片名は清州藩の蔵入地とするので、変わりの領地を与える」と言う書簡が届きますが、これを聞いた徳川家康直参の有力者から「千賀氏本領の件は、以前、織田長益に領地を奪われそうになった時、徳川家康が直々に交渉してそのままにした事もあり、千賀氏はその恩を忘れずに関東移封に従っている。過去の事情からみても、領地替えは難しく筋目違いが起こらないように…」といった内容の書簡が清州の奉行に送られてきており、父の千賀重親も徳川家康の元にいた事もあって、領地替えは行われずに千賀氏は幕末まで師崎・須佐の地を中心に南知多の地を治め続ける事となります。
壁と吉原すさで持つ
以下の文章は、西まさる氏の著書である『吉原はこうしてつくられた』(新葉館出版)を参考にさせて頂きました。
文化13年(1816年)に書かれた『尾張國地名考』と言う書物の中に
「壁と吉原すさで持つといへるは、先年當國須佐村の者江戸吉原の花楼を取り立てしと言う一説あり、又千賀氏は吉原の地頭のごとしともいへり、故をもて今古比村より吉原へ往しもの不レ絶となり、諸崎(もろざき)の羽豆神社を遊女の寄進せし立派な挑灯おほし」
と言う一文があります。
『すさ』とは土塀の中に入れて補強する藁のような植物の事で、漢字では『苆』と書き、地名の『須佐』と掛けた言葉になります。
つまり、家の壁には『苆(すさ)』が必要不可欠なように、吉原には『須佐(すさ)』が必要不可欠であり、師崎の羽豆神社には吉原の遊女らが寄進した提灯が数多く掲げられ、その繁栄ぶりは見事な物だったと言う事になります。
また、文書の中の吉原は明暦3年(1657年)に起きた明暦大火の後に、現在の浅草近辺に再建された新吉原の事です。
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慶安4年(1651年)由井正雪(ゆい-しょうせつ)が江戸の町を火の海とした上で京や大阪、駿府などを占拠して天下を乗っ取ると言う慶安の変が起こります。
慶安の変は未然に防がれたものの、翌年の承応元年(1652年)には軍学者の戸次庄右衛門を首謀者とする承応事件が発覚。
さらに、明暦2年(1656年)に入ると江戸の各地で放火と思われる事件が頻発します。
当時の北町奉行は石谷貞清(いしがや-さだきよ)で、年齢は58歳と当時としては高齢ながら、徳川秀忠(とくがわ-ひでただ)に従い大阪夏の陣に参戦し、島原の乱でも本丸に突入して奮戦するなど戦国を知る残り少ない武将であり、武断政治から文治政治に変わりつつある世の中から外れていく浪人を召し抱えたり、再就職の斡旋をしたりするなどしている他、市民階級から外れた卑賤層の人々を保護する政策を打ち出すなど、混乱を収める努力をします。
混乱が見える中、明暦3年(1657年)1月に死者は3万人(文献によっては10万人近く)とも言われた明暦の大火(振袖火事・丸山火事とも)が起こり、江戸城本丸を始めとして市中の約6割が焼け野原となります。
幕府は大混乱に追い散った江戸市中を治めるため、被災者救援として米蔵の米を放出して1ヵ月余り江戸市中各地で粥の炊き出しを行い、米や木材の高騰を防ぐため、価格調整しながら家を失った江戸市民に十六万両の救援金を支給し、武家にも復興資金を給付するなど次々と施策を行います。
明暦の大火から2ヶ月を過ぎて3月に入ると、江戸市中の混乱も少しづつ収まってきますが、その中で起こった事が吉原移転です。
当時は見渡す限り沼や荒れ地だった浅草寺の裏手に元吉原の倍にあたる土地を与え、不逞の輩が潜伏しやすい建物などを1か所に集める事で治安維持を容易にするなどの目的があったようです。
移転計画自体は明暦の大火以前からありましたが、4月には奉行達が視察を行った後に埋め立て工事が始まり、6月には仮宅で営業していた遊女屋の移転も全て完了すると言う急ピッチな造成でした。
そこで活躍したのが知多半島を本拠とする土木工事衆でした。
現在でこそ農産業が発達している知多半島一帯ですが、昭和に入って作られた愛知用水ができるまでは飲料水にも苦しむ地域であり、常滑焼に用いられる粘土質の土の影響もあって水持ちが悪いため、溜池などを作る土木工事技術が発展しており、他国に移動するにも尾張藩の管轄とはいえ、徳川家康の直轄領としての性格も持つ地域だったため、幕府の御膝下での工事にはもってこいだったと思われます。
4ヵ月と言う短期間で営業に漕ぎつけた新吉原でしたが、その楼主の大半は元吉原で営業していた人物ではなく、新たに須佐の地から招へいされた人々でした。
その理由には諸説あるようですが、旧吉原の楼主達と不逞浪士との結びつきが強くなっていた事と、尾張藩に従いながらも徳川家康の代より徳川直参としての扱いを受け続けてきた千賀氏への信頼があったと思われます。
ともあれ十九軒(元禄期には十八軒)ある揚屋のうち十三軒の揚屋の主が南知多から来た人物となり、それ以外にも吉原で商売していた南知多の人物は多数存在していたと伝えられています。
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交通アクセスと登城
須佐城の位置として比定される場所は、江戸時代の絵図では千賀氏の菩提寺である正衆寺の背後の山となる字会下坪から鵞麦にかけての一帯となっているようですが、千賀氏の家老である川合氏の記録文書では谷を隔てた東南の地にある字鵞麦から孫松にかけてとなっており、場所の特定には至っていません。
両地とも畑地として使用されていたようで、曲輪ともとれる平坦地が各所に残されていますが、当時の物か、後世に削平された物かは定かではないようです。
〇正衆寺
知多郡南知多町豊浜字会下坪3
その他関連施設等
長田屋敷
知多郡美浜町野間字下高田
羽豆岬城
知多郡南知多町師崎字明神山2
(寄稿)だい
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