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尾張・常滑城とは
常滑城(とこなめ-じょう)は愛知県知多半島西部を南北に通る常滑街道沿いに位置し、伊勢湾を眼下に望む小高い地に築かれた城です。
常滑は古来より焼き物の産地として有名で、日本六古窯の一つに数えられていますが、その中でも最も古くから存在しており、平安時代に生産された「古常滑」と呼ばれる焼き物は全国の中世遺跡から出土しています。
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室町時代に入ると、足利宗家4代目当主の足利泰氏(あしかが-やすうじ)の七男は三河一色郷(現在の愛知県西尾市一色)に吉良地頭として赴任し、一色公深(いっしき-きみふか)を名乗ります。
観応の擾乱を経て明徳の乱で戦功を挙げた一色詮範(いっしき-あきのり)は若狭・三河に加えて尾張の知多・海東2郡の守護に任じられ、現在の常滑市北部に大野城を築き、一帯を支配していきます。
歴史
室町末期に起こった応仁の乱の最中、一色氏は兄弟間で敵味方に別れ争いを始めたため、その影響力は次第に衰退していき、知多半島は北西部を支配する佐治氏と渥美半島から知多半島南部に進出してきた戸田氏が争う地となりますが、その隙を縫うように西三河を拠点に勢力を拡大していた水野氏が知多半島北東部から常滑にかけて進出してきました。
常滑城が築城されたのは文明11年(1479年)頃と言われており、水野家初代とされる水野貞守(みずの-さだもり)の子、水野忠綱(みずの-ただつな)が初代城主となりました。
その後は二代目水野山城守、三代目水野守次(みずの-もりつぐ)と代を重ね、常滑の地を支配していきます。
水野守次は監物守隆とも称し、妻は水野信元(みずの-のぶもと)の女と言う事ですから、徳川家康とは従兄弟の間柄となりますが、津田宗及(つだ-そうぎゅう)千利休(せんのりきゅう)、連歌師の里村紹巴(さとむら-しょうは)らとの交流が深かった事が記録に残されており、その縁から明智光秀(あけち-みつひで)とも交流を深めていたとされます。
「當代記」の天正12年(1582年)本能寺の変の記事には『此日未刻計、此の事聞安土(中略)又尾張国の水野監物即従明智、翌日明智安土殿上に上りし時も、伴いける。時の人非人として悪之。明智果て後、牢人也』とある本能寺の変の二ヶ月前に京に滞在してい事が「津田宗及茶湯日記」に記録されており、一般的に常滑水野家は明智方の武将として認識されていたようです。
本能寺の変当日、水野守次の所在は明らかになっていませんが、山崎の合戦にはその名前が見えない事から、直前には本拠地の常滑へ戻っていたと考えられます。
本能寺の変の時、堺にいた徳川家康とその一行は土豪に襲われるなどの苦難を経て伊賀の地を横断し、伊勢国長太(現在の三重県鈴鹿市)に辿り着き、船で対岸の常滑に渡ります。
常滑城は明智方とみなされていましたが、城下の正住院は、徳川家康の従兄弟が住職を務めている愛知県半田市の常楽寺の末寺であり、徳川家康主従にとっては知多半島西岸で安心できる場所の一つだったと思われます。
寺の裏門から入った徳川家康は傍らの大石に腰を下ろし、安堵の一息をついたと言われ、休息を終えた一行は庄屋の八兵衛に案内させ、半田市の常楽寺へ移動し、無事に岡崎まで帰還したと伝わっています。
常滑城は尾張の地が織田信雄(おだ-のぶかつ)の領地になると、家老の岡部重孝(おかべ-しげたか)の持城となりますが、天正12年(1584年)織田信雄によって殺害されると、天野五右衛門が入城します。
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天正18年(1590年)豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)による小田原征伐が行われると織田信雄も従軍しますが、戦後の論功行賞で移封命令を拒否したため改易され、それに伴って常滑城も廃城になったと伝わっています。
交通アクセスと登城
推奨ルート:
常滑城は正法寺に隣接する公園に看板と城址碑が立てられており、公園から東に約200m程に位置する天理教常滑教会の入り口道路沿いにも、もう一つ城址碑が存在しますが、いずれも駐車場は無いため、徒歩での訪問となります。
公共交通機関では、名古屋鉄道常滑駅から徒歩約20分程度で正法寺に到着します。
名古屋鉄道常滑駅→(徒歩20分)→正法寺(常滑城看板・城址碑1)→(徒歩5分)→天理教常滑教会(城址碑2)→(徒歩5分)正住院
正法寺(常滑城址)
常滑市市場町5-13
天理教常滑分教会
常滑市山方町1丁目
正住院
常滑市保示町1-56
その他関連施設等
常楽寺
半田市東郷町2丁目41番地
(寄稿)だい
・どうする家康の舞台「岡崎城」下を巡る~築山殿と岡崎信康の首塚
・三河・市場城の解説~中世城郭と近世城郭・桜と紅葉
・尾張・楽田城の解説~文献上最も古い天守があった小牧長久手の戦い前哨戦
・当サイトで紹介中「日本全国のお城・オリジナル地図」
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