目次 Contents
三河・雨城とは
雨山城(あめやま-じょう)は宮城谷昌光氏の著書「風は山河より」の中で「雨山の戦い」の舞台として取り上げられて以来、広く知られるようになった山城です。
立地を見ると、南からは徳川家康(とくがわ-いえやす)2大武勲の一つと言われる一宮砦の後詰めが位置する豊川から北上し、風越峠(風吹峠とも言われているようです)を越えて至り、北東に進むと本宮山を越え奥平家が支配する作手地区に入ります。
西に進むと雨山川(乙女川)から乙川を経由して岡崎城下に出る事ができ、北西は日近城を越えると麻生や瀧脇など松平一族が支配する地を経て松平氏発祥の地である松平城へと進む事ができるため、山間の狭隘地ではあるものの、交通の要所に位置する地に築かれた城になります。
歴史
雨山城は別名阿知波城(あちわ-じょう)とも呼ばれ、織田氏との関係の深い阿知波氏が本拠とされる知多半島から、織田氏の三河進出への拠点作りの一環として阿知波佐定(あちわ-すけさだ)の頃に転住してきたと言われています。
阿知波佐定の息子である阿知波定基(あちわ-さだもと)が築いたとされる雨山城の正確な位置は解っていませんが、雨山川の渓谷最深部に位置する村落規模の地域内の各地には削平地や宝篋印塔などが残されています。
スポンサーリンク
弘治2年(1556年)奥平家当主である奥平(貞勝)定勝(おくだいら-さだかつ)の嫡男である奥平(貞能)定能(おくだいら-さだよし)が今川氏に忠節を尽くす父に対して反乱を起こします。
この反乱時、日近城(ひちか-じょう)を拠点に作手の西方を固める奥平久兵衛(おくだいら-きゅうべえ)は阿知波定基の嫡子である阿知波定直(あちわ-さだなお)を誘って西方への進出を推し進めていきます。
今川方の野田城主である菅沼定村(すがぬま-さだむら)は風越峠を越えて雨山の地へと侵入。これに対し阿知波定直らは狭隘部分に木戸と柵を築いて防衛線を引き両軍は対峙します。
阿知波勢の兵力が少ないと見た菅沼定村は、柵の突破が容易いとみて正面から攻撃を開始しますが、奥平五郎右衛門の放った矢が喉にあたり討ち死にを遂げてしまいます。
雨山合戦では勝利を収めましたが、後続の今川の大軍を防ぎきれずに首謀者の奥平定能が降伏し、高野山に追放されたため半年に及ぶ反乱は収束します。
天正元年(1573年)作手を本拠とする奥平氏の配下で七族と呼ばれる宿老の筆頭である和田奥平氏が突如として武田氏へ寝返り、甲州へ走ります。
この時、日近奥平氏の尽力により阿知波氏は奥平姓に改姓をし、奥平一族として迎え入れられたため、以降は雨山奥平家として定着。
スポンサーリンク
その後は長篠の戦いの籠城戦などで手腕を発揮し、先手双翼の一翼として江戸時代には2千石余を得る高い家格を保つ事になります。
交通アクセスと登城
公共交通機関で訪問する場合は地域のコミュニティバスの運行があるようですが、本数が少ないため自家用車での訪問をお勧めします。
自家用車で訪問する場合、国道1号線にある赤坂町松本の信号交差点を県道332号大代赤坂線に沿って北上し、県道334号千万町豊川線を新城方面に北上。県道382号足山田大代線を雨山ダム方面に東進。東アチワを過ぎた左手が登城口になります。
登城口から80m程進むと雨山合戦跡の碑が立てられており、さらに100m進んだ左手の崖の上に菅沼定村の供養塔が立てられています。
登城口から200m程山道を進むと崖を直登する部分に出ますので、足元に注意しながら尾根道まで登っていきます。
尾根道まで登ったら、進行方向を戻る方向で進むと突き当りが城跡となります。
崖の部分の昇り降りがかなり厳く、雨が降った後は足元が滑る可能性が高いため、慣れていない方は足元をきっちり固めた上、天気の良い日が数日続いた後での登城をお勧めします。
その他関連施設等
・日近城
岡崎市桜形町般興
・泉龍院
新城市豊栄6
〇菅沼定村が大洞村を新設して寺領とした事で山号を大洞山とた寺
(寄稿)だい
・三河・日近城の解説~三河忩劇(みかわそうげき)の舞台
・三河・伊奈城の解説~徳川家の家紋「三葉葵の紋」発祥の地
・愛知県「源頼朝」由来の地をめぐる~生誕地・熱田神宮周辺など
・三河・川尻城の解説 ~いざ奥平家を再興へ!~
・だい先生訪問の三河・尾張など城跡特集
共通カウント
この記事へのコメントはありません。