目次 Contents
常陸・木原城とは
常陸・木原城 (きはら-じょう) は茨城県稲敷郡美浦村木原にある平山城で、別名は神越城(かみこしじょう)、木原館と言う。
最初の築城は不明点が多いが戦国時代とされる。
江戸崎城の土岐氏に仕える近藤利勝(近藤氏元)が伊佐部村にあった居城が焼失し、永正元年(1504年)に神越之城に移ったと言う。
そして、1506年に神越村を「木原と改む」とあることから神越城が木原城であるとも考えられている。
近年、常陸・木原城主である近藤利勝を描いた肖像画「絹本著色近藤利勝像」が発見された。
常陸・木原城が戦国時代に築城されたとは考えにくいため、話の時代を少し古い時代に戻すが、地元の永厳寺(えいがんじ)の伝承によると、1394年に近藤利貞(近藤民部正利貞)が開いた寺となっている。
また、1431年には近藤利春が山号を実照山と改めたともある。
そのため、常陸・近藤氏は少なくとも南北朝時代(室町時代初期)の頃から木原の領主だったのだろう。
そもそも近藤氏は相模・横山党の一族が発祥と考えられ、相模国・近江国・三河国など全国各地に近藤氏が散らばっている。
戦国時代だと、津久井城主の近藤氏や、井伊直虎とも縁深い近藤秀用などが見受けられる。
木原城がある信太荘(しだのしょう)は、鎌倉時代には小田氏の領地であったが1333年に鎌倉幕府が滅亡。
下野守護であった小山義政が鎌倉公方・足利氏満に対して起こした小山義政の乱(1382年)のあと、小田孝朝が小山若犬丸を秘かに匿ったことで信太荘は没収された。
代わって信太荘を領したのは反乱鎮圧に功を挙げた山内上杉氏で、1387年、上杉憲方が関東管領になると、原師親の次男・原師秀の子である原秀成(原左馬助秀成)が上杉氏の要請で、常陸・信太庄惣政所(しだのしょうそうまんどころ)として赴任し、江戸崎城を本拠にしている。
ちなみに、上杉憲方は木原城からも近い信太庄布佐郷を臼田直連に与えている。(臼田館・丸山館)
この臼田氏はのち羽賀城に移り、江戸崎城の西を防衛した。
この土岐氏の家臣に近藤氏がいたのか?、もしくは山内上杉氏の家臣だったのかといったところであろう。
スポンサーリンク
戦国時代の話に戻すが、1497年に江戸崎城の土岐原景成が跡取りなく没すると、常陸・土岐氏は小田成治から侵攻を受ける。
1506年前後?、土岐原氏家臣である羽賀城の臼田弥次郎、常陸・木原城の近藤八郎三郎(近藤勝秀)の被官・原内匠助ら数名が小田氏と内通して江戸崎乗っ取りを謀るも発覚したともある。
同じ年の1506年、近藤義勝が常陸・木原城主となっているので、近藤勝秀は責任を取らされたのか?
一説では、1510年から小田氏が一時、江戸崎城を占領していたともされるが、1514年に小田成治が没し、小田政治の代になると、美濃・土岐氏から迎えた土岐治頼(原治頼・江戸崎治頼)は、木原城の近藤勝秀、羽賀城の臼田河内守らと関東管領・上杉憲房らの支援を得て、1523年に小田氏の常陸・八代城(屋代城)を攻略。
土岐治頼は龍ヶ崎城から江戸崎城を奪還し旧領を回復した。
1523年、常陸・小田城の小田政治が木原城を攻撃。
1527年、近藤丹後守が土岐美作守治頼の次男・小増丸を養子に望んだが断られたともある。
近藤利勝の娘・時姫が手作りしたと言う「虎の刺繍」が1554年に木原・永厳寺に寄進されている。
永禄5年(1562年)、土岐治美が改修をし、近藤義勝(近藤利勝とも?)に木原城の守備を任さたとある。
この土岐治美に関しては江戸崎城の江戸崎土岐氏の一族と考えられるが、土岐治英(土岐治秀)の可能性が高いか?
1575年、常陸・小田城の小田家臣で、常陸・上条城主の江戸崎監物が佐竹氏に寝返って木原城を攻め落とした。
しかし、江戸崎監物は土岐氏一族の諸岡逸羽の反撃を受けて上条城にて自刃し、木原城は奪回された。
<注釈> 諸岡一羽(もろおか-いちは)は塚原卜伝の弟子のひとりともされる剣豪。
1583年、佐竹義重と嫡子・佐竹義宣、白川義広(芦名盛重)らが霞ケ浦を渡って木原城を攻撃。
城は落城したようで、一時、白川義広(芦名盛重)が木原城に入ったようだが1589年までに土岐治綱によって奪還された。
そして、その1589年には、近藤利勝と近藤義勝の親子が楯縫神社を寄進(再建)したとある。
近藤利勝がこの頃まで健在だったのか?は少し疑問に感じるが・・・。
まぁ、このように常陸・近藤氏に関してはわくわからないところが多いと言うより、もっと地元の皆様がしっかり研究・調査すれば、より多くのことが分かる余地があると感じる。
最後は1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、伊豆・山中城が陥落した頃、木原城は江戸崎城・龍ヶ崎城と共に佐竹義宣に降伏し、芦名盛重が江戸崎城に入り木原城も佐竹氏の領土となった。
三の丸、二の丸よりも、広い平坦地となる本丸(詰曲輪)のほうが標高が低い場所にあるのが特徴と言えよう。
その本丸からは、古代の環濠集落跡も発見されているが、城は生き延びるための施設であるため防御以上に「脱出経路」が最重要である。
そのため、霞ケ浦に接する低い場所を本丸として、船を使った脱出方法を考慮した結果、本丸の位置が低い場所となったのだろう。
木原城の絵図面が残されていたようだが、1929年(昭和4年)の木原大火で焼失したと言う。
スポンサーリンク
常陸・木原城を訪問した際には雨も強くなっていた為、散策は断念している。
交通アクセス
現在は木原城址城山公園として整備されており、道路は細いものの駐車場も完備されている。
電車の場合、JR常磐線・土浦駅からバスに乗り「木原バス停」下車して徒歩5分。
駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。
このあとは、土浦城を再訪した。
・江戸崎城の歴史解説~土岐治頼が土岐氏の宗家になった常陸・土岐氏の本拠地
・常陸・古渡城のちょこっと解説~甲賀忍者・山岡景友が大名になった霞ケ浦湖畔の城跡
・筑波・小田城と小田氏治の頑張り~8回も奪還を試みた小田城の防御は弱かった?
この記事へのコメントはありません。