奈良県

大和・宝来城とは~安康天皇陵にある戦国時代の城跡

大和・宝来城

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大和・宝来城とは

大和・宝来城は、 奈良県奈良市宝来にある丘城で、安康天皇陵とも呼ばれる。
古墳だが土塁・郭・空堀・土橋と考えられる遺構もあることから城・砦として活用していたと推測されている。
安康天皇(あんこうてんのう)は、古墳時代の453年に即位した第20代天皇とされ、日本書紀では穴穂天皇と呼ばれている。
記録で明確に暗殺されたとある、日本で最初に暗殺された天皇と言う事にもなる。
安康天皇陵の古墳は諸説あるが、今回ご紹介する宝来城跡にもなっているのは菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)。
宮内庁管理のため、宝来城跡に立ち入ることはできない。


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この場合、最初の築城としては古墳時代と言いたいところだが、戦闘用としての活用開始は室町時代であるため、最初の築城は室町時代としておきたい。
なお、この場合の最初の築城は在地豪族の宝来氏となる。
室町時代の大和国は、奈良・興福寺がほぼ支配しており、武将が大和守護になっている訳ではなかった。
大和では筒井氏がよく知られるが、その筒井氏も興福寺の衆徒であり、衆徒が武装して武将化していた。
その筒井氏の更なる衆徒(家来)と言う立場が宝来氏になる。

戦国時代に入ると興福寺が衰退し、大和四家である筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏の勢力が台頭した。
細川政元の重臣・赤沢宗益が大和に侵攻すると、筒井氏・秋篠氏は宝来城を拠点にして対抗したようだ。
松永久秀の大和侵攻では、赤沢朝経や木沢長政らに攻められて、大和・宝来城は落城している。

大和・宝来城

安康天皇陵に治定されているこの場所、そもそも陵墓だったものを城に改修し、その形のまま再度陵墓に治定したのか、はたまた元々城跡だった場所をを陵墓に擬して治定したのかは不明です。

古墳を城として活用した事例は、仁徳天皇陵(国見城)、安閑天皇陵(高屋城)、藤井寺陵墓参考地(津堂城)などある。
関東でも埼玉「さきたま古墳群」の丸墓山古墳を石田三成は本陣として忍城への水攻めを行っている。
しかし、宮内庁の発掘調査で、この安康天皇陵から中世の遺物しか見つからなかったと言う点が気になる。
ひょっとしたら、古墳ではなく最初から城として築城したのかも知れない。

今回は北側にある奈良パークホテルさんに宿泊した際に、4階の廊下より撮影だけさせて頂いた。

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交通アクセスですが、近鉄・尼ヶ辻駅から、西に徒歩18分ほど。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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