甘利氏館
甘利氏館(あまりし-やかた)は、山梨県韮崎市旭町上條北割にある平城(館跡)。
最初の築城は不明だが、甘利行忠が築いたとされ、甘利氏発祥の地と考えてよいだろう。
鎌倉時代初期の甲斐源氏4代・武田信義の嫡男・一条忠頼の次男が甘利荘に入って甘利行忠となる。
父・一条忠頼は、1184年に源頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺された。
1185年、甘利行忠も連座して常陸国に配流となったあと処断されている。
甘利荘は鎌倉幕府の領地となり、鎌倉時代の後期には北条得宗領となっている。
その後、甘利一族は、甘利山麓に牧草地を開いたともあるため半農半士の状態だったとも考えられる。
鎌倉幕府が滅ぶと訴訟を受けた室町幕府は甘利荘を武田一族に返還したが、誰に与えられたのかは甘利行義?、一条信長など諸説ありハッキリしない。
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発掘調査によると戦国時代の陶磁器・椀・古銭などが出土したことから甘利氏館が使われていたようで、甘利虎泰・甘利昌忠の居館とされている。
武田信虎の重臣・甘利虎泰は、板垣信方などと1541年に武田信虎を駿河・今川義元のもとに追放し、若き武田晴信を擁立した。
その後、1548年、信濃・葛尾城主である村上義清との上田原の戦いにて、才間河内・初鹿野伝右衛門・板垣信方と甘利虎泰は討死し、子の甘利昌忠(甘利信忠)が家督を継いでいる。
なお、躑躅ヶ崎館(武田氏館)の近くに甘利虎泰屋敷跡もあるため、戦国時代でも実際に甘利荘を領していたのかは不明といったところだ。
甘利氏館跡に建立された大輪寺は、甘利郷領主甘利氏の菩提寺となるが開基は甘利左衛門尉昌忠となっている。
この甘利昌忠は、武田二十四将に数えられる甘利信忠(甘利虎泰の子・甘利昌忠)のことで、開山は甘利昌忠の3男・慶受院日国聖人。
ただし、創建したのは1590年とされるため、甘利信忠(甘利昌忠)の亡きあと、子供たちが寺を建立したようだ。
甘利氏館跡は現在の山梨県韮崎市旭町上条北割の大輪寺境内にある。
南は大庭、北側は北門、東側に矢立・的場、西側には大堀があったと伝わる。
本堂裏の墓地には甘利左衛門尉昌忠の墓があるが、明治30年に建てられたものらしいので省略。
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甘利氏の詰の城は扇子平山城だが、日亜鋼業の社有地と言う情報もあり、また雪雲が届いていたため、遠景撮影に留めた。
交通アクセス
甘利氏館への行き方だが、境内の駐車場入口は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなるが、道路が狭いので曲がる箇所も狭く大きなクルマはぎりぎりである。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂ける。
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