塩原城とは
塩原城(しおばらじょう)は、栃木県那須塩原市上塩原にある平山城で、比高40mほど、箒川の崖上にあります。
別名は、那須・塩原城、塩原要害城、要害城とも言います。
少し離れた下流には、大同元年(806年)開湯とされる、那須塩原温泉があります。
最初の築城としては、平安時代末期の治承2年(1178年)に、塩谷家遠の弟・塩沢家忠(塩沢八郎家忠)が、箒川と善知鳥沢(うとうざわ)との合流点、高台に塩原城(要害城)を築いたとされています。
ただ、そんな古い時代から、砦として機能させていたのか?は、ちょっど疑問に感じます。
その頃、塩原は、宇都宮氏の領地で、塩谷氏の一族の塩原氏が地頭として、1156年頃には、八郎ヶ原に舘(八郎が原館)を構えていたとあります。
鎌倉時代に入ると、南会津を領地にした、長沼宗政(小山宗政)の所領になったようで、塩原氏は、長沼氏に従いました。
<注釈> 長沼氏は、平将門を倒して武功を立てた藤原秀郷の子孫(小山氏)
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その塩原氏も、1468年頃?、船生城(塩谷町)から勢力を伸ばした宇都宮系の君島信濃守に、飲み込まれ、その君島氏も、橘伊勢守により滅亡しました。
その橘伊勢守は、諸説ありますが、南山・長沼氏(小山氏)の一族ともされ、1475年、戦場(せんば)の戦いで、君島氏に勝利しました。
要害と言う言葉がありますので、その室町時代に改修されたのは、間違いないと言えます。
ただし、近くには、橘氏の狭間城、君島氏の離れ室城(はなれむろじょう)もあると言います。
1502年には、会津・黒川城の芦名氏に従っていた、小山出羽守(おやまでわのかみ)が、城主として見られます。
その後、宇都宮成綱の家臣・塩原綱宗(しおばら-つなむね)が、1509年、片角軍萱の戦いで活躍し、塩原荘の要害山城が与えられたとあります。
1528年、塩原綱宗は、子・塩原越前守に家督を譲り隠居しました。
その後、宇都宮氏の家臣・塩原越前守(しおばらえちぜんのかみ)が、塩原城の大改修を行ないました。
1592年、塩原越前守ら7名が、朝鮮出兵に従っています。
しかし、1594年、朝鮮から戻った塩原越前守と家臣は内紛となりました。
これは、奥州仕置での太閤検地で、年貢が増えていたため、家臣らとトラブルになったようです。
そして、1596年、花見の席で、塩原越前守が家老に殺害されました。
1597年、仇をとろうとした子・塩原貞国(塩原小太郎貞国)は、紅葉の席に、家老を呼びましたが、失敗したようで、傷を負い、小太郎ヶ淵にて身を投げ、塩原氏は滅びました。
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塩原家忠、塩原越前守、塩原小太郎の墓は、妙雲尼が開いたと言う妙雲寺にあるようです。
1597年、宇都宮氏も内紛で宇都宮国綱が改易されると、塩原城も使われなくなったようです。
今回、日没に付き、登城・探索は、断念しています。
交通アクセス
塩原城への行き方・交通アクセスですが、要害公園の無料駐車場が広くて便利です。
ただし、トイレは簡易型しかありません。
その要害公園から、吊り橋を渡って、対岸の塩原城の下に行けるようです。
ただし、崖上の道路の方からのほうが、城跡訪問は、便利だと思われます。
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陽が暮れてしまったので、これで、帰宅の途につきました。
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