大庭景義とは
大庭景義(おおば-かげよし)は、平安時代末期の武将で、懐島権守平景能とも言います。
大庭氏は、桓武平氏良文流である鎌倉党の鎌倉景政が開発し、1116年頃、伊勢神宮に寄進することによって成立した大庭御厨を支配していました。
現在の寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市へと広がる、当時の相模国では最大の御厨だったと言えます。
大庭景義の父は、大庭景宗とも、大庭景忠ともされます。
<注釈> 鎌倉党は養子関係が多い。
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母は、横山氏の娘(横山隆兼の娘?)です。
弟などの年齢から推測すると、1138年頃に誕生したとみられます。
弟に、平塚・豊田郷の豊田景俊、大庭景親、横浜市戸塚区俣野の俣野景久がいる他、姉妹が波多野義常の妻になっています。
大庭氏は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉景政の開発・寄進によって成立した大庭御厨を支配していた、鎌倉党の一族です。
御厨(みくりや)と言うのは、天皇や伊勢神宮などの領地と言う意味になります。
大庭御厨の場合、伊勢神宮に土地を寄進していたと言う事で、収穫されたお米の一部を、毎年、伊勢神宮に送る代わりに、大庭荘の管理を任されていると言うお墨付きを得て、大庭氏も収穫の一部を管理料として収入にしていたと言う事になります。
なぜ、収入の一部を失ってでも、寄進(寄付)するのか?と申しますと、周辺の豪族との領地争いにおいて、その土地の管理者(支配者)であることを明確にすると言う側面もあります。
1156年、源義朝に従って、大庭景義は、保元の乱で奮戦しますが、敵・源為朝の矢で負傷し、歩行ができなくなりました。
巧みに馬を操ったため、命は無事だったとあります。
そのため、大庭氏の家督と大庭御厨下司職を、弟・大庭景親に譲り、大庭景義は、懐島館にて隠居していたようです。
懐島館
相模国大庭御厨(神奈川県藤沢市)にある懐島郷(神奈川県茅ヶ崎市)の懐島館が、大庭氏の本拠であり、懐島太郎(ふところじま-たろう)、懐嶋権守、大庭平太、大庭景能とも称しています。
懐島館(かいじま-やかた)は、現在、神明大神宮がある場所で、住所は、神奈川県茅ヶ崎市円蔵になります。
屋敷の敷地は、とても広大で、7000坪もあったと伝わります。
神明大神宮は、茅ヶ崎の地元の皆様が大切にされている神社と言う感じです。
たいてい、館跡が神社になっていても、特に案内板などは無いケースも多いのですが、ここ神明大神宮は違いました。
神明大神宮の本殿の裏側には、かつて、懐島館があったことを示す、史跡として、様々なものが整備されていましたので、とても素晴らしいと感じました。
「懐嶋山の碑」(えな塚)は、源頼朝と丹後局との間に生まれた子の胎盤(胞衣)が、納められたと伝わります。
ちなみに、大庭氏屋敷の最西端だったと考えられる西久保の桜屋敷では、丹後局が男子を出産しました。
三郎と名付けられた男子は、1185年、源頼朝と対面し「島津忠久」と名乗ったとあります。
<注釈> 懐嶋山の碑は、大庭景能の墓ともされます。
また、桜屋敷跡の近くには、大庭景義の建立とされる宝生寺があり、阿弥陀堂に安置されている阿弥陀三尊像は、国の重要文化財となっています。
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1180年、源頼朝が挙兵した際には、大庭景義も、山木兼隆の舘襲撃に参加したとされます。
しかし、弟・大庭景親は、1159年、平治の乱のあとか?、囚人となった際に、平氏に助命してもらった恩義もあり、平家に属する決断をしたと考えられます。
そして、弟・大庭景親は、俣野景久、渋谷重国、糟屋盛久、熊谷直実、梶原景時らを従え、源頼朝に敵対する平氏の総大将となり、石橋山の戦いでは、敵方となりました。
大庭景義は、建築関係にも詳しかったようで、源頼朝が鎌倉に入ると、建造物などの奉行を命じられており、鶴岡八幡宮にある源平池の工事や、大蔵御所などの工事を指揮しました。
源頼朝の命にて、下河辺行平が波多野義常の松田郷に軍勢を向けると、波多野義常が自刃します。
そのため、源頼朝は、遺児・波多野有常(松田有常、河村義秀)を大庭景義に預けたとあります。
<注釈> 波多野氏の本領・波多野荘は、波多野義景が継承している。
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富士川の戦いで、平維盛が敗走すると、弟・大庭景親は、降伏し、上総広常に預けられます。
この時、源頼朝は、弟・大庭景親の「助命を嘆願するか?」と、大庭景義に訪ねたとされますが「すべてを頼朝様にお任せする」と回答したようです。
そして、弟・大庭景親は、片瀬にて斬首されました。
その後、大庭景義は、足が悪いと言う事で、その後、ほとんど、合戦には出陣せずに鎌倉を守っています。
また、強弓の勇者として知られる源為朝の矢を左膝にうけながらも、命を長らえたと言う大庭景義の武勇は、伝説のようになっており、鎌倉で、もてはやされたとあります。
そのため、鎌倉御家人の中でも、建築技術・戦術論にも優れた長老格となり、何かと頼られる存在になったようです。
例えば、藤原泰衡を征伐する際に、なかなか後白河法皇の院宣が得られなかった時です。
意見を求められた大庭景義は「奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要」としまた「戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される」ことを説いて、鎌倉幕府で、採用されました。
1191年、源頼朝の命もあり、大庭景義は、茅ヶ崎・鶴嶺八幡宮の社殿を修復して再興しました。
3重塔もあったと言いますので、なかなか、立派な再興を行ったようです。
しかし、大庭景義は、一時失脚したようで、1193年8月、大庭景義と岡崎義実は、一緒に出家しており、家督は嫡男・大庭景兼が継ぎました。
大庭景義は、1210年4月9日に死去。享年は推定73。
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その後、1213年、和田の乱にて、子の大庭景兼も討死したと考えられ、懐島郷は、二階堂基行に与えられています。
なお、懐嶋山の碑(えな塚)は、島津忠久のえな(胎盤)が埋められたとありますが、別説では、大庭景義の墓ともされます。
交通アクセス
懐島館跡への行き方ですが、JR相模線「香川駅」から約1.7km、徒歩25分くらいです。
バス利用の場合には、茅ヶ崎駅の北口から、茅25系統「寒川駅南口」行き、または茅26系統「文教大学前」行きに乗車して所要13分、円蔵バス停下車して、270m、徒歩5分となります。
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懐島館跡の駐車場ですが、神明大神宮の入口左に、1台ほど、すっぽり収まるスペースがありました。
しかし、神社関係者専用の可能性があり、特に駐車場などの表示もないため、止めるのは自粛し、円蔵交差点近くのコインパーキングを利用して、徒歩で向かわせて頂きました。
梅田通り沿いにも有料駐車場があります。
神明大神宮周辺は住宅街で、道路も1.5車線ですので、路上駐車するようなことは、無いようにお願い申し上げます。
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