山口県

蓮華山城の解説 椙杜隆康・椙杜元縁の本拠地

蓮華山城

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蓮華山城(れんげやまじょう)は、山口県岩国市周東町にある山城で、標高576mの蓮華山の山頂に本丸が築かれていました。
比高は480mと、とても堅固で、別名は蓮華大将陣、六角山とも言います。
周防国玖珂郡椙杜郷は、鎌倉時代に問注所執事を世襲していた太田氏の領地だったと考えられます。
鎌倉幕府問注所執事・三善康信の子である三善康連が、備後国世羅郡太田(広島県世羅郡世羅町)を与えられて、三善流太田氏の租となりました。
その孫にあたる太田時連(おおた-ときつら)は、室町幕府において、足利尊氏に仕え、室町幕府の初代・問注所執事になっています。
嫡男・太田貞連は早世しており、1341年、亡き太田貞連の3男である太田時直が、周防国玖珂郡椙杜郷の地頭職となりました。
<注釈> 太田氏の家督と問注所執事は、太田貞連の嫡男・太田顕行が継承。


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太田時直の孫・太田正康の頃より「椙杜氏」(すぎもり-し)と称するようになり、大内氏の被官となりました。
1467年(応仁元年)の応仁の乱で、大内政弘が上洛した際には、椙杜正康の子、椙杜弘康が従っています。
この椙杜弘康には子がなく、大島郡八代の桑原某の次男を養子にして、椙杜房康が家督を継ぎました。
その子が、椙杜隆康となります。

椙杜隆康(すぎのもり たかやす)は、大内義隆に従っていました。
天文20年(1551年)、大寧寺の変にて、陶隆房(陶晴賢)が謀反を起こして、大内義長が大内氏の当主になります、
そして、引き続き、大内義長に仕えました。

天文22年(1553年)、備後・旗返山城主の江田隆連が、大内家を裏切った際に、尼子晴久毛利元就が合戦になると、毛利家の援軍として、椙杜隆康が派遣されました。

蓮華山城

1555年(弘治元年)、陶晴賢が厳島の戦いで討死し、毛利元就が周防へ侵攻開始すると、椙杜隆康は、周防・瀬田城小方元康らと毛利氏に降伏しています。
そして、蓮華山城の真下にある、杉隆泰の周防・鞍掛山城を背後から攻撃して、杉隆泰を討ち取りました。(鞍掛合戦)
こうして、玖珂は椙杜氏の領地として組み込まれています。
なお、椙杜隆康には子がなく、毛利元就の5男・毛利元秋を養子としていました。
しかし、1569年、月山富田城に毛利元秋が赴くことになると、養子縁組は解消され、代わりに毛利元秋の弟・毛利元康(末次元康)を養子として迎えました。
ただし、1585年、毛利元秋の死後、毛利元康(末次元康)が月山富田城主となったため、またもや養子縁組が解かれています。
そのため、椙杜隆康は、毛利一族である志道元保の次男・志道元縁が、椙杜隆康の娘と結婚して養子となりました。
椙杜元縁(志道元縁)は、1588年に、長門・且山城(長門・勝山城)に移ったため、蓮華山城は廃城になった模様です。
椙杜元縁は、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、長府藩主・毛利秀元の筆頭家老になっています。


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登城ルートは、比叡神社の鳥居から入っていく、市が迫ルートと、谷津上公会堂から進んで二鹿から登る「相谷ルート」などがあります。
登山道はあまり整備されておらず、荒れているようで、迷う恐れもあります。
往復3時間以上でもあり、登城する場合には「地図」「ストック」など軽登山以上の装備にてお願いしたいと存じます。

蓮華山の南西310m地点には、石垣なども残る「今要害」があるようで、出丸と考えられます。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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