山梨県

甲斐・深草館の解説 堀内下総守の居城

深草館

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甲斐・深草館 (ふかくさ-やかた) は、山梨県北杜市長坂町大八田にある平城で、標高758m、比高は脇を流れる川とで10mほどになります。
別名は、深草塁、深草城とも言います。
最初の築城は不明ですが「甲斐国志」によると逸見清光の家臣・堀内氏の本拠だったようです。
逸見清光(源清光)は、武田冠者と呼ばれた源義清の子で、平安時代の1110年に常陸・武田氏館で生まれました。


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その後、父が流罪となって市川大門の義清館(市川)に流罪となったあと、逸見清光(源清光)は官牧が発達していた逸見荘(北杜市)に進出して勢力を伸ばしました。

深草館

逸見清光の子孫は、甲斐の各地へ進出し、逸見氏・武田氏・加賀美氏・安田氏・浅利氏といった甲斐源氏の諸支族の祖となります。
その武田氏からは、戦国時代に、武田信虎武田信玄を輩出したと言う事になります。

深草館

そのうち、逸見氏からのちに分かれたのが、吉田氏、小松氏、万為氏、堀内氏とありますので、清和源氏義光流・逸見氏の庶流が、深草館を与えられた甲斐・堀内氏と言って良いでしょう。
最初に築いた(与えられた)のは、1128年に生まれた、逸見清光の嫡男・逸見光長であったともされます。
戦国時代の逸見一族としては、小弓公方・足利義明の家臣である逸見祥仙、若狭・武田重代の家臣でのちに織田信長に従った逸見昌経、甲斐では飯富虎昌溝口秀勝がいます。

深草館

その後、年代は不明(室町時代後期?)ですが、甲斐・深草館主としては、堀内下総守の名が見受けられます。
堀内下総守に関しては「武田御日牌帳」に元亀2年(1571年)と、天正4年(1576年)に記述があります。
その堀内下総守の子・堀内主税助の時に甲斐・深草館は落城したため、天正年間に堀内氏は陥落したとありますが誰から攻撃を受けたのかは不明です。
単純に考えれば、織田信忠の軍勢が甲斐になだれ込んで、新府城に向かう際に、落城したのかも知れません。

武田勝頼の自刃後に発生した「天正壬午の乱」では、北条氏が深草館を占領しましたが、徳川家康との和睦後、廃城になったようです。
現在城址では、土塁や堀切などの遺構を確認することができるそうです。

近くには、金生遺跡(きんせいいせき)と言う、埋葬施設や祭祀施設が複合した縄文時代・晩期の遺跡があり国指定史跡となっています。
その敷地内には、戦国時代頃と推定されている、10棟以上と相当な規模の館跡も発掘されたことから、甲斐・深草館の外郭部遺構にもなっていたと考えられているようです。
ひょっとしたら、かつて、逸見氏の住まいがあった可能性も捨てきれません。
見学は可能なようですが、私有地のようですので、時節柄(新型コロナ)自粛させて頂き、道路からの見学に留めさせて頂きました。


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甲斐・深草館への交通アクセス・行き方ですが、JR中央本線・長坂駅から北杜市民バスに乗車して、大久保バス停下車し、徒歩約6分となります。
長坂駅からタクシーだと、約15分です。
駐車場はないようですが、道路は駐車禁止ではありません。(北側の方が路肩スペース多し)
深草館の案内板は、南側の角にありますので、当方のオリジナル関東地図でもポイントしておきます。

北杜市辺りの城跡・館跡も、色々とおもしろそうです。
北方には、駐車場もある国指定史跡「谷戸城」もありますので、セットでどうぞ。

獅子吼城(江草城) 武田信虎の甲斐統一で最後まで抵抗した山城
天正壬午の乱の全容 神流川の戦いから北条・徳川の勢力争い


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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