出雲・鶴ヶ城 (つるが-じょう) は、島根県大田市朝山町と、島根県出雲市多伎町口田儀の境、すなわち、出雲国と石見国の国境にある標高147mの山城で、比高は135mになります。
別名は、田儀城、出雲・要害山城とも言います。
最初の築城は不詳ですが、源義家の嫡男・源義親(みなもと-の-よしちか)が、官吏を殺害して、隠岐へ流される途中、出雲にて再び目代を殺害して、1102年、清嶽山に柵を作り、鶴ヶ丸と命名して、弟・源義忠とともに籠城したともあります。(源義親の乱)
その後、1336年~1392年頃、地頭・古荘二郎左衛門が清嶽山に築城したと伝わります。
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恐らくはと言う推測の話になり、恐縮ですが、古荘氏に関しては下記の通りです。
古庄氏(ふるしょうし)と言えば、相模国愛甲郡古庄(神奈川県厚木市上古沢・下古沢)を本拠とした一族でして、武蔵七党小野氏流(横山党)とも関連性が高いです。
また、鎌倉時代に、出雲・神西城に入った神西三郎左衛門(小野高通)の小野氏は、武蔵七党小野氏流の神西氏です。
鶴ヶ城がある口田儀も含めて、奥田儀、多伎、小田など出雲最西端が知行地です。
この小野氏は、出雲に来て、はじめは古荘氏を称しており、のちに神西氏と名乗りました。
戦国時代には、神西三郎左衛門元通と言う尼子氏の重臣がいます。
そのため、室町幕府側の田儀地頭・古荘二郎左衛門尉(田儀次郎左衛門尉)に関しては、神西城にいた、武蔵七党小野氏流神西氏の一族と見てよいでしょう。
愛甲武士の多くは、足利尊氏の被官となって、室町幕府創設に活躍していました。
ちなみに、毛利元就の毛利氏も、もとは、相模国愛甲郡毛利莊が発祥となります。
戦国時代の大永年間(1521年~1528年)には、小野玄蕃守(古荘玄蕃守)と言う武将が築いたとありますので、まぁ、城を改修したとみてよいです。
古い姓名の小野氏を称するようになっていた模様です。
小野玄蕃守(古荘玄蕃守)は、1万5000石の大身で、尼子氏に従いました。
毛利元就による2度の攻撃にも屈していません。
しかし、元亀3年(1572年)、その小野氏の家臣・広瀬右近之丞が守備していたところ、毛利輝元の軍勢が攻撃しました。
この時、毛利勢は、のち石見銀山などで名が見られる、田儀出身の田儀鉱山師・三島清右衛門のアドバイスがあり、落城させたとありますので、籠城戦となったのでしょう。
鉱山を掘る知識があった三島清右衛門は、山麓を採掘して、井戸の水脈を絶つことを進言したものと推測します。
のちの話ですが、出雲・白鹿城への攻撃も、毛利家は、掘り進めて井戸の水脈を絶つと言う、同じ作戦を取っています。
その後は、城名が、地元の地名「田儀城」と改められて、毛利家の家臣・大鳥馬場が3000石にて城主になっています。
この大鳥馬場守と言う武将に関しては、さっぱし、詳細がわかりません。
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出雲・鶴ヶ城への交通アクセス・行き方ですが、JR田儀駅から歩きますと、北側の登城口まで約1.5km、徒歩20分くらいです。
登城する場合、北の日本海に面したほう(田儀漁港の西側)に、大きな無料駐車場があり、鶴ヶ城跡遊歩道が整備されています。
ただし、南側から登ったほうが、本丸には近いようですが、駅は遠くなります。
なお、国道9号、下り坂でスピード違反の取り締まりを行っていました。
制限50ですので、ご注意を。
・神西城の解説 尼子党に加わった神西元通の最後
・石見・石見城の解説 (石見銀山城館)【世界遺産】
・掛戸松島 夕焼けの絶景地(島根県)
・古荘氏(古庄氏)の考察
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