玉造要害山城(たまつくりようがいさんじょう)は、島根県松江市玉湯町にある標高108m(比高80m)の山城です。
別名は玉造城、要害山城、湯ヶ山城(ゆがせん)、湯ノ城(ゆのさん)とも言い、玉造温泉を守る城です。
出雲の玉造は、昔から温泉と青メノウの産地として知られ、古代玉つくり集団の住居跡(国指定史跡・出雲玉作史跡公園)もあるように、重要な拠点でもありました。
玉造要害山城としては、鎌倉時代の後期に、隠岐国・出雲国の守護である佐々木泰清の7男・佐々木頼清(佐々木七郎左衛門)が湯荘に入って「湯氏」を称したのが始まりとされます。
玉造要害山城の築城に関しては、1332年、後醍醐天皇が隠岐へ配流される際、湯氏一族の富士名義綱(富士名判官義網)が同行しました。
その留守中に、家臣の諏訪部扶重(すけしげ)が謀反を起こして、玉造要害山城に籠城しましたが、攻められて落城したとあります。
富士名雅清(ふじな-まさきよ)は、その後、船上山の戦いなど、後醍醐帝を支えており、若狭守護になっています。
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その後、南北朝時代に湯頼清の孫・湯秀貞 (湯伊予守秀貞) が玉造城を大改修しました。
本丸と帯郭には、尾根筋方面に土塁・縦土塁が設けられ、本丸直下の堀切は、土塁を伴う厳重な構えになっているようです。
ただ、これらは、戦国時代の改修跡と考えられますので、毛利氏の手が加わったものと推測します。
戦国時代の天文11年(1542年)、湯家綱 (湯佐渡守家綱) が大内氏に従っている記録があり、1551年に亡くなったとある湯家綱の墓碑が壊れた状態で、城跡に残っています。
永禄元年(1558年)に記された玉作湯神社の棟札には「湯菊丸」の名があります。
なお、本家ではない可能性もありますが、尼子氏の重臣に湯惟宗(ゆ-これむね)がおり、尼子経久・尼子晴久・尼子義久の3代に仕えました。
その子が湯永綱で、1557年に湯永綱の長男として、多胡辰敬の娘が湯之荘で産んだ武将に、のち3万8000石にて、因幡・鹿野城主となる亀井茲矩(かめい-これのり)がいます。
ただ、出雲の湯氏を称するの家は、3流11系統あり、詳しくは不明です。
玉造城への交通アクセス・行き方ですが、JR玉造温泉駅から、一畑バスの「玉造温泉行き」に乗車して、玉造温泉バス停下車となります
JR玉造温泉駅からタクシーで向かうと5分くらいです。
玉造要害山城に登城する場合には、麓の玉造湯神社の石段横(鳥居横)から坂道を上がり、説明看板を確認して、その横の石段を登って行けます。
所要時間は、玉造湯神社の入口から片道15分ほどのようです。
玉作湯神社は観光客が多いですが、城跡は、そんなに足を踏み入れる人はいません。
駐車場は、神社の駐車場を利用できます。
このあとは、玉造温泉の旅館に宿泊しました。
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