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浜田城とは
浜田城 (はまだ-じょう) は、島根県浜田市殿町にある梯郭式平山城で、標高は68m、比高65mほどになります。
日本海に面した松原湾と、浜田市中心部の浜田川脇にあり、鴨山(亀山)と呼ばれる独立式丘陵に築城されています。
亀山城と言う名の城跡は、日本全国にあり、島根県江津市にも石見・亀山城がありますので、非常にややっこしいのですが、山の名前が亀山のため、浜田城も別名は石見・亀山城と言います。
浜田や益田あたりは、下級官吏となって各地を転々とした、飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂 (かきのもと-の-ひとまろ) が死去した地ともされます。
そのため、少なくとも、戦国時代には、毛利家の石見・吉川氏などにより、浜田城に城があったものと推測致します。
吉川元春の次男・毛利元氏が、1585年に、本明城主だった福屋隆兼の旧領3000貫を引き継いで、石見・浜田城に入り、改修したともあります。
が、一般的に、現地の説明などでは、浜田城の築城は、江戸時代とされております。
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大阪の陣で豊臣秀頼が滅んだあと、伊勢・松坂城の古田重治(ふるた-しげはる) が、1619年、5万4000石にて浜田藩主となりました。
そして、約3年かけて、城下町などと共に整備したのが、浜田城で、藩庁が置かれました。
本丸には、独立式望楼型三重の天守もあったようで、曲輪内には上級家臣~中級家臣の屋敷が配置されていとの事です。
山の名称は「鴨山」と呼ばれていましたが、鴨という名は城がある場所に、ふさわしくないとして亀山に地名変更されたため、石見・亀山城とも呼ばれる次第です。
浜田城を築いた古田重治 (ふるた-しげはる) の古田氏は、もともと、美濃・土岐氏の家臣から、羽柴秀吉の家臣になっていた古田重則の3男として1578年に生まれました。
古田重治の正室は、丹羽長秀の娘・円光院です。
同じ一族には、茶人で成功した古田織部がいます。
伊勢・松坂城は、1595年に、兄・古田重勝が豊臣秀吉から、3万4000石にて与えられています。
1600年、関ヶ原の戦いで、古田氏は徳川家康に味方したため、5万4000石となっています。
しかし、兄・古田重勝が死去すると、長子・古田重恒が、まだ4歳で幼少だったため、弟の古田重治が中継ぎとして、兄・古田重勝の養子になる形で、家督を継承したようです。
兄の子・古田重恒に、長女を嫁がせ、1625年に家督を譲ると、古田重治は江戸の藩邸で隠居しましたが、1627年に死去しました。享年48。
下記は浜田城からの展望でして、眼下は日本海となります。
第2代藩主・古田重恒は、1648年に3名の家老を斬殺した、お家騒動(古田騒動)を起こしたあと、嗣子がいなかったことで、改易(所領没収)となりました。
その後、萩城の毛利家の抑えとして、浜田藩は、徳川家ゆかりの親藩となっています。
幕末の浜田藩主は、水戸藩主・徳川斉昭の10男(庶子)である、松平武聰(まつだいら-たけあきら) が、1847年に、6歳ながら越智松平家を相続しました。
慶応2年(1866年)、第2次長州征討になると、長州藩の大村益次郎が、浜田城を攻撃し、病気だった松平武聡は、松江城へ逃走。
このとき、敗残の浜田藩兵が浜田城と、城下町を放火する「自焼退城」を行ったため、灰燼に帰しました。
現在は城山公園として整備されており、本丸や二の丸の二の門などの石垣や土塁が現存し、桜の名所として市民の憩いの場になっています。
また、津和野藩武家屋敷の門が、長らく、浜田県庁正門として使用されていましたが、現在、浜田城に移築されています。
CGではありますが、2019年に、浜田開府400年年祭実行委員会さんによる、復元の浜田城や、城下町の様子が、下記にてよくわかります。
浜田城への交通アクセス
浜田城への行き方・交通アクセスですが、JR山陰本線の浜田駅「北口」から、徒歩約20分で登城口です。
クルマの場合、麓にも駐車場がありますが、標高30mくらいの中腹にある「護国神社」の参拝者用駐車場(無料)が便利です。
ただ、国道9号からは、対向車が来たらおしまいの1.2車線の狭い道を登って行きますが、国道からの入口も、ちょっとわかりにくいです。
続日本100名城のスタンプが設置されている場所は、濱田護國神社社務所(8時~16時)、城山公園前のバス停近くにある浜田城資料館(9時~17時・月曜定休)になります。
・石見・温泉城の解説 湯氏の居城
・石見・山吹城 本城常光が毛利勢から石見銀山を守る
・大村益次郎 (村田蔵六)の解説
・松坂城の歴史解説【日本100名城】駐車場の場所など~服部一忠・古田重勝とは
・山陰地方の史跡・城跡へのカーナビにも便利な地図
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