石見・亀山城 (かめやま-じょう) は、島根県江津市江津町にある標高30mの丘城(海城)です。
江の川が日本海に注がれる河口にある街「江津」(ごうつし)に位置し、現在、城址は本光寺になっている模様です。
江の川の水運と、江津の港町の抑えが、石見・亀山城と言えるでしょう。
浜田城も別名は、石見・亀山城と言いますので、注意が必要です。
最初の築城は不明ですが、都野氏(つの-し)が築いたとされます。
都野氏は、藤原北家の宇都宮氏が先祖で、石見国の二宮「多鳩神社」の神主家で、神主城を居城としていました。
その多鳩神社の社領が、石見国都野郷で、戦国時代には、都野隆安 (つの-たかやす) が、大内義隆と大内義長に従っています。
スポンサーリンク
大内義長が毛利元就によって滅ぼされると、1557年7月、都野隆安は毛利元就に服属しました。
1561年、本明城の福屋隆兼が毛利家から離反して尼子氏に従属すると、毛利勢は福屋隆兼を敗走させています。
都野氏は毛利家から離反することはなかったようで、何度か、毛利元就と起請文の交換を行い、知行地を安堵されています。
そして、江の川の抑えとして、新たに石見・亀山城を築くと、神主城から本拠を移した模様です。
上流には、久喜鋼山、銅ヶ丸銅山などがあります。
都野隆安の子である都野家頼(つの-いえより)は、正室に、吉川経家の娘「あちゃこ」を迎え、毛利輝元に従いました。
毛利氏が豊臣秀吉に従うようになると、1586年の九州攻めにも参陣しました。
豊前・宇留津城を攻めた際に、都野家頼は、小早川隆景や黒田孝高(黒田官兵衛)と共に武功を挙げ、毛利輝元や吉川元長から感状を受けています。
毛利氏の惣国検地では、都野郷678石、出雲・仙導286石の合計965石との記録があります。
1597年、豊臣秀吉の朝鮮攻めでは、毛利秀元に従って朝鮮に渡海し、末次元康に属し、蔚山倭城の築城を行っています。
しかし、明軍の先鋒・擺寨らの軽騎兵1000に急襲され、冷泉元満や阿曽沼元秀と共に、都野家頼は討死しました。(蔚山城の戦い)
スポンサーリンク
翌年1598年に生まれた、都野元勝 (つの-もとかつ) の家督継承を、毛利輝元は許しており、長州藩士となっています。
その他の都野氏としては、一族と思われる、大和田城主の都野保通(つのやすみち)、都野城主の都野就勝(つの-なりかつ)が見受けられます。
石見・亀山城跡は、現在、本光寺になっています。
あまり遺構は無いようですので、麓からの遠景だけ撮影させて頂きました。
・石見・温泉城の解説 湯氏の居城
・石見・山吹城 本城常光が毛利勢から石見銀山を守る
・浜田城の解説【続日本100名城】古田重治が築城
・山陰地方の史跡・観光のカーナビにも便利な地図
この記事へのコメントはありません。