静岡県

湯船城 駿東の山あいにある城跡

湯船城

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湯船城とは

湯船城(ゆぶね-じょう)は、静岡県駿東郡小山町柳島地にある山城で、野沢川と湯船川の合流点近くの標高410m、比高90mの附野山にあります。

駿河・湯船領主としては、小河祐能と言う武将の名が知られているようです。
藤原親康の妹が、湯船領主である小河祐能の母との記載がある文献があるだけで、この小河氏に関しては不詳です。

鎌倉幕府、初期の御家人に、似ている名前で、武蔵国に小河祐義と言う武将がいます。
この小河祐義は、恐らくは、西多摩郡東秋留村の小川牧(小河郷)の小川氏(小河氏)とも考えられ、湯船城の小河祐能とは繋がらないと考えられます。


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小河祐能の母とされる女性の父・藤原親康(ふじわら-の-ちかもり)は、平安時代末期の武士で、北面の武士として後白河上皇に仕えていた、藤原北家長良流となります。
藤原親康は、後藤氏とも言います。
鎌倉幕府が成立し、曾我兄弟の仇討ちの後には、後藤氏の娘が、代々、伊東氏に嫁ぐような感じになっていますので、伊豆半島の伊東氏が気になります。
源頼朝北条時政の監視のもと、伊豆にいた頃、伊東祐親(河津祐親)は、大番役となって京にて警護にも当たっていますので、伊東氏の誰かが、藤原親康と接点があったのかも知れません
伊東氏は、伊東祐継、工藤祐経、河津祐親など、同じ「祐」と言う文字を使いつつも、領地となった地名を姓名にするケースが多いです。
「伊東祐家の子・伊東祐光が小川三郎を称している。」と言う記述もあるのですが、どうしても、裏付けが取れません。
一般的に、伊東祐家は、早く亡くなったとされており、子としては、伊東祐親しか伝わっていない状態です。
また、平安時代末期から鎌倉時代の初期に、工藤氏(伊東氏)では、伊東祐光と称する武将が、複数名いたと考えられますので、よけいに、わからないと言う感じです。

ちなみに、曾我兄弟の仇討ちで知られる工藤祐経の次男・工藤祐長は、奥州・安積伊東氏の祖となって、安積祐長とも呼ばれますが、その嫡男に、薩摩七郎祐能(安積祐能)がいます。
安積郡は1213年の「泉親平の乱」での功により安積祐長に与えられたともあります。
そのため、ひょっとしたら、工藤祐長の妻は、藤原親康の妹で、子の安積祐能が、奥州に移る前に、湯船城にいたのかもしれませんが、確証を得るのは、今となっては非常に困難です。


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なお、麓にある本蓮寺が、湯船城主の居館跡ともされるほか、湯船堀之内と言う館跡も別途あるようです。

新東名の高速が、湯船城跡を通過することから、建設工事前に、城跡とされる範囲で、発掘調査が行われました。

湯船城

その結果、堀切・土塁・建物跡・曲輪などは、一切出てこなかったとの事ですので、単純な見張り台程度の詰城だったのかも知れません。
ただし、灰釉陶器が出土したことから、平安時代から人々の生活があったことはわかっています。
また、江戸時代の宝永4年(1707年)に、富士山が宝永噴火を起こしましたが、その時、埋没した畑跡が確認され、炭化したオオムギ・コムギ・アワの種子の他、炭化した鱗茎(りんけい)※球根が大量に出土したとの事です。
これは、大量の火山灰に覆われ、畑の再建を断念したと言えるでしょう。
この富士山噴火に関する遺跡調査としては、過去、静岡県内では最大規模の調査になったそうですが、結論としては、湯船城跡の範囲を再検討する必要があるとなっています。


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湯船城への交通アクセス・行き方ですが、結構、大掛かりな工事をしていた関係で、登城は断念しています。
お城の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしておきます。

曽我兄弟の仇討ち 分かりやすい経緯~工藤祐経と伊東祐親の遺恨
伊東祐光の解説~鎌倉時代初期の伊東氏当主?
生土城 駿河小山の山城
河村城 畝堀(障子堀)や深い堀が見事な山城
相模・沼田城 波多野氏の一族である沼田氏の城跡
足柄城 本丸から望む素晴らしい富士山は絶景
関東の城めぐりに便利なオリジナル地図


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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