下野・藤沢城(藤沢城)は、栃木県栃木市鍋山町にある山城です。
標高は194m、比高140mほどの城跡で、別名は鍋山城となります。
最初の築城は、室町時代に島津政忠(小曾戸政忠)が築いたとされます。
西側の山に不摩城(下野・秋葉城)があり、さらに強固な構えが必要になったため、下野・西山城が整備されたものと推測致します。
戦国時代の下野・島津氏は、佐野氏に従っており、小曾戸氏と名を変えていた模様です。
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1564年、上杉輝虎が下野・唐沢山城を攻めた際に、佐野昌綱が小曽戸長門守(小曽戸泰忠)に「於諸口敵五十餘人討捕、手負数多仕出之候之事、誠以忠信手柄、無比類次第候」と戦功を称える感状を発行しています。
また、年代が不明ながらも、上杉謙信からも小曽戸氏への書状が確認されています。
小曽戸氏が、小田原城の北条氏政と戦ったようで、小曽戸図書助、小曽戸善三と、小曽戸氏一族である梅沢兵庫助に対しての書状です。
その3つの内容によると、上杉輝虎は「虎房丸」と言う佐野昌綱の末子を、実質的な人質として上杉家の養子に迎えると記載されています。
佐野氏の系図では虎松丸と言う、上杉家へ養子に出された武将がいますので、恐らく、虎房丸と虎松丸(佐野昌綱の末子)は同一人物とみてよいでしょう。
佐野昌綱が1574年に死去すると、佐野昌綱の嫡子である佐野宗綱と、上杉家の後ろ盾を得ている弟・虎松丸との間で、跡目争いとなったようで、佐野一族は「唐沢山天正の乱」と呼ばれる騒動になりました。
結果的に、佐野氏は上杉家を裏切ったため、1576年、上杉謙信は虎松丸に加勢する形で1万5000にて、下野・唐沢山城を攻撃しました。
この唐沢山城の戦いは10回にも及んだとともされ、佐野一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢があるなどして、上杉謙信を手こずらせました。
まあ、下野・藤沢城は、直接、関係ありませんが・・。
佐野宗綱は、1585年に、北条勢の長尾顕長との戦いで鉄砲で討たれます。
子が無く後継ぎがいなかったため、佐野氏の家臣らは、最終的に北条氏康の子・北条氏忠を養嗣子として迎え入れ、佐野氏忠と名乗らせました。
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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて、佐野氏が改易されると、下野・藤沢城の小曾戸氏は帰農したと伝わります。
下野・藤沢城(鍋山城)への交通アクセス・行き方ですが、県道沿いの歩道に、小さな「行先案内」があります。
場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしておりますので、カーナビがわりにでもご活用頂けますと幸いです。
その先から登城できますが、駐車場がなく、なおかつ雨模様のため、登城は断念しました。
このあと、近く(反対側)の不摩城(秋葉城)へ向かいました。
・不摩城(下野・秋葉城) 島津氏の城跡
・下野・吹上城 膝附宗長の城跡
・下野・粟野城 斉藤秀隆討死の激戦地
・お城に行くのに便利なオリジナルGoogleマップ
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