秦野・香雲寺(トップ写真)は、北波多野一帯を所領とした田原城主・大藤氏が、羽根村にあった春窓院を1564年に移転して再興した寺院となります。
大藤家と言うのは古くから北条家に仕えていたようで、1541年10月、扇谷上杉家・上杉朝定による河越城の戦いでは大藤一族の大藤信実、大藤信基(大藤金谷斎信基)、大藤与次郎が、河越城の北曲輪を守備して活躍した事が文献にも見られます。
特に大藤信基と言う武将は、伝承によると紀伊・根来の出身で、北条氏綱(北條氏綱)に認められて田原城主になったようです。
日本に鉄砲が伝来すると、北条家に鉄砲を伝えたともされていますが、足軽衆の統率も任されていますので、重用されていたのは間違いないでしょう。
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その大藤信基(おおふじ-のぶもと)は、出家して「栄永」と名乗りますが、1537年の上総・真里谷氏の内紛でも、真里谷信隆の北条援軍として派遣されています。
このとき、小弓公方・足利義明と里見義堯が、真里谷信隆を攻めると敗れて、真里谷信隆を連れて武蔵・金沢に戻っています。
第1次国府台合戦では、大藤信基が足利義明を挑発するよう献策したため勝利したとされ、恩賞として上総国に所領を与えられました。
1552年3月21日に大藤信基が死去すると、嫡男・大藤景長とその子・大藤栄永も続けて死去した模様です。
これは甲陽軍鑑によると、武田信玄が大藤家の軍略を恐れて暗殺したとありますが、真偽のほどは不明です。
1552年12月になると、北条氏康の命にて、亡くなった大藤栄永の末子である大藤秀信が家督を継ぎました。
大藤秀信(大藤政信)はのちに「政」の字を北条氏政(北條氏政)より授けられて大藤政信と改名しています。
しかし、1572年、武田信玄が遠江・二俣城を攻撃した際に、武田の援軍として出された北条勢として出陣しましたが、大藤秀信(大藤政信)は討死しました。
その後、大藤政信(おおふじ-まさのぶ)が、田原城主を務めますが、父と同じく、北条氏政より1字を与えられて同じ名前になってしまったので、2代目・大藤政信とここでは明記させて頂きます。(旧名は不明)
2代目・大藤政信の通称は大藤与七、式部少輔、式部丞です。
父が1572年に討死したあと、2代目・大藤政信が家督を継いだと推定できますので、年代的に見て香雲寺(こううんじ)は、父・大藤秀信(大藤政信)が再興して菩提寺にしたと考えて良いでしょう。
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2代目・大藤政信は北条氏直の足軽衆として転戦し、1581年には上野・天神山城を上杉景勝からの攻撃から救い、武田勝頼の駿河・興国寺城攻めでも防衛戦にて戦功をあげています。
また、1582年の天正壬午の乱でも出陣し徳川勢と戦いました。
ただし、2代目・大藤政信は1586年5月23日に死去したことが、香雲寺に残されている位牌から分かります。
どうやら、香雲寺の東側にある台地先端部分が田原城と考えられており、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、大藤長門守が50騎にて守備したとあります。
下記の写真中央にある丘だと推測致します。
堀ノ内とも呼ばれる場所の近くですが、要害とは言いにくく、元々は居館でちょっと防御面も整備したのかな?と言う印象です。
いずれにせよ、南の西田原はちょっとした古い集落で、城下町のような赴きを感じます。
その後の大藤家に関してはわかりませんが、北条家滅亡後、香雲寺は1591年に徳川家康から寺領5石の朱印を受けています。
香雲寺の本堂裏山の中腹に、大藤氏の墓が2つあるそうです。
香雲寺の鐘は、1629年の鋳造で「大藤秀信」の名が入っていると言います。
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秦野・香雲寺の駐車場は境内にあります。
下記の地図ポイント地点から参道をずっと上がって行った先に境内駐車場がありました。
大河ドラマで北条5代が実現する際には、是非とも登場する北条家臣に加えて頂きたい秦野の大藤氏でした。
真田丸の時のように、このようにマイナーな武将でも優秀だった武将は是非取り上げて頂きたいものです。
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