武蔵・沢山城(三輪城)とは
武蔵・沢山城(さわやまじょう)(三輪城)は、東京都町田市にある城址です。
鶴見川河岸の丘陵の先端付近を広く使っている城で、主郭と考えられる南東端の曲輪の高いとこには、七面堂があり、恐らくは櫓台であったと推測致します。
武蔵・沢山城(三輪城)の築城年代や築城者など、詳しい事は不明である謎の城です。
三輪の地名由来としては、元応年間(1319年-1321年)に、大和国城上郡三輪から、斎藤氏・矢部氏・荻野氏が、この広袴郷に移り住んだことによるとされます。
スポンサーリンク
小田原城の北條氏が相模国を得たころの広袴郷は、成瀬城でも出てくる小山田弥三郎の所領だったと考えられます。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、八王子城主・北条氏照(北條氏照)より三輪から兵糧を小田原城へ送るよう書簡が見受けられるため、北条氏照の家臣が三輪城主であったと考えられ、今でも麓にお住いの荻野氏が城主だったのではとする説もあります。
なお、その書簡では大石筑前の部下に兵糧を渡すようにとあります。
この大石筑前守は、北条氏照が発行した別の書状宛名として「大石筑前守殿・横地与三郎殿・間宮若狭守殿、氏照花押」とある古文書も見受けられるため、北条氏照の重臣であることは間違いありません。
なお、この大石氏は、滝山城主であった大石一族の武将と推定できます。
上記は、南側からの見た武蔵・沢山城(三輪城)の丘陵です。
北側は鶴見川が流れており、比高30m~40mとなります。
登城口の階段を上がり、沢谷戸自然公園と隔てるフェンスの脇を道なりに進んで行きます。
複雑な地形になっているようで、土塁?とも、切通しとも思われる場所もありました。
城主は荻野氏の他、三輪氏とする説もあります。
どんどん進むと、やがて曲輪が見えてきます。
町田にはこのような城跡は結構あります。
上記は二の丸と言って良いでしょうか?
その二の丸の先には主郭櫓台と考えられる七面堂があり、標高72.5mと一番のピークになっています。
上記は主郭と思われるところです。
空堀のようなところもありました。
三輪城の東側の道路沿いには、白坂横穴古墳群もあるそうです。
なお、沢山城は荻野家所有の私有地ですが、七面堂への参詣ということでのご厚意により見学できます。
ただし、歩行できる通路以外は「立入禁止」とあちこちに看板があり、また団体での見学はお断りとなっていますので、ルールは守り訪問するようお願い申し上げます。
また、マムシ注意ですので、夏場でも長ズボン・登山靴など、足元はしっかりした装備がお勧めですが、虫よけも必須です。
武蔵・沢山城(三輪城)への登城口(上記写真)は、下記の地図ポイント地点となり、階段を上がって行きます。
他にも北側からも登れるようです。
スポンサーリンク
沢谷戸自然公園には駐車場がないのですが、公園の南側から西方面の場所は、宅地造成の分譲を失敗したような場所で「畑」となっており、その公園脇の道路は駐車禁止にはなっていませんでした。
タクシーもトイレ休憩などで止めていましたので、小生もその辺りに車を止めさせて頂きました。
もちろん住民の方にご迷惑にならないよう止めましょう。
公園の中を西へと歩いて行けば、登城口(入口)となります。
・成瀬城もセットでどうぞ
・小山田記~ 現認・小山田氏400年の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
・元木山城(大傘館)をできる限り詳しく解説~町田・鶴川の城跡
・武蔵・亀井城の解説~柿生の亀井重清屋敷跡?「亀井重清」(亀井六郎)とは「小島佐渡守」とは
・日本全国の「お城」の場所がわかるオリジナル地図
「荻野」です。
萩野ではありません。
沢山城は本家の敷地です。(屋号は正法寺)
読みも「さわやま」です。
城の南になる谷戸は沢谷戸(さわやと)です。
三輪在住の荻野より。
ご指摘を賜りまして、誠にありがとうございます。
異なっている点、修正させて頂きました。
深く御礼を申し上げます。(^-^)