下総・花輪城(はなわ-じょう)は、千葉県流山市三輪野山にある平山城です。
花輪城址公園として整備されていて、土橋のかかる空堀や土塁の痕跡などの遺構が残されています。
標高は20mですので、平城と言ってもおかしくありませんが、江戸川にと小さな河川の合流部先端の丘にある感じで、流山街道の抑えだったようです。
なお、千葉県船橋市にも同じ下総国の花輪城がありますので、混同しないように非常に注意が必要です。
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最初の築城は不明ですが、高城胤吉の家臣・花輪淡路守が築いた城に、平本定虎(平本主膳正定虎)が入ったともされます。
なお、新編武蔵風土記稿では、高城定胤(高城大膳亮定胤、高城大膳亮定景)の次男・田島時定(田島刑部少輔時定)が、のちに「平本氏」と称したとありますので、平本氏は高城一族と言えるでしょう。
田島時定は、高城胤則の代になると、栗ヶ沢城主として移ったのか、兼務したのかともあります。
また、平本定虎は田島時定の妹(高城定胤の娘)を正室にしたともありますので、養子として平本氏に入った可能性も高いです。
このように、前ヶ崎城と同じく、下総・小金城を本拠とした高城氏の家臣が入った支城だったのでしょう。
なお、田島時定(田島刑部少輔時定)は、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊らと山中城の守備をしていたようで、討死したともあり、子の田島定久(平本主膳定勝)は、母と下総州貝塚村に潜居したともされます。
田嶋刑部少輔時定(たじま-ぎょうぶしょうゆう-ときさだ)の墓は、高城氏一族の墓がある廣徳寺にある模様です。
18歳になった田島定久(平本定勝)は、伊奈忠次の許可を得て、江戸川の対岸にある三輪之江村(吉川市三輪野江)を開墾したようで、平本氏館(平本氏屋敷)を設けました。
北隣の桐ケ谷には、田島刑部少輔時定の妹で、平本主膳正定虎の妻の墓があるとされています。
下総・花輪城への交通アクセス・行き方ですが、流鉄流山線の終点・流山駅から徒歩25分。
流山おおたかの森駅からですと徒歩30分です。
駐車場はありませんが、下記写真の県道信号の脇に空き地(草地)があり2台くらいでしたら止められますので、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。
・松戸城とは 千葉氏一族である原氏の城
・国府台城 江戸川沿いの台地にある下総の拠点
・下総・小金城(大谷口城) 江戸川沿い最大の平山城
・高城胤吉とは 千葉氏の一族として松戸を領した戦国武将
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