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米子城とは
米子城(よなごじょう)は久米城、湊山城とも言う、鳥取県米子市久米町にあり、山陰街道を見下ろす標高90m・比高88mの梯郭式平山城で国指定史跡に指定されています。
続日本100名城にも選ばれました。
最初の築城は不明ですが、戦国初期に山名教之の家臣・山名宗之が飯ノ山に砦を築いたのが始まりとも考えられます。
1569年、尼子氏再興の旗揚げをした山中鹿之助(山中幸盛)らは、米子城主・山名之玄と同盟を結んでいます。
しかし、吉川元春に攻められて米子城は落城して山名之玄は自害し、福頼元秀や古曳吉種が城代を務めた模様です。
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豊臣秀吉の命にて、1591年に吉川元春の子・吉川広家が、14万石にて月山富田城に入ります。
この時、米子城は改修されて、飯山の山頂に最初の天守(独立式望楼型3重4階)が設けられたようです。
1600年、関ケ原の戦いのあと、吉川広家は岩国城に移され、中村一忠が僅か11歳ながら米子17万5000石となり、米子城の大改修を行いました。
中村一忠とは
中村一忠(なかむら かずただ)は、1590年に駿府城主・中村一氏の子として生まれました。
母は池田恒興の娘・安養院です。
米子城の写真を交えながらご紹介いたします。
豊臣秀吉の死後、父・中村一氏は、重臣・横田村詮らの勧めを受けて、徳川家康に接近します。
しかし、病を得ていたため、関ケ原の戦いの直前、1600年7月17日に死去しました。
そのため、子である中村一忠が家督を継いだわけですが、亡き父・中村一氏は徳川家康に協力すると約束していたため、中村一忠は米子藩主として3万石加増のうえ移封となり、伯耆一国を与えられた訳です。
なお、中村一忠はまだ年少であったため、藩政は横田村詮が執りました。
米子城が完成するまでは、尾高城に滞在していたようです。
正室は、松平康元の娘で徳川家康の養女となった浄明院ですので、中村家に対して、徳川家康は配慮していたことも伺えます。
横田村詮とは
この横田村詮(よこた-むらあき)の経歴は不明瞭の点が多いですが、阿波の三好康長の甥とも言われます。
岩倉城主・三好康長の家臣に加わると、その嫡男・三好徳太郎(三好康俊)の補佐をしました。
三好氏が滅亡すると、天正11年(1583年)、岸和田城主となった中村一氏に召抱えられたと言う事になります。
横田村詮の正室は、中村一氏の妹ですので、それだけ見込まれた優秀な武将だったのだろうと推測できます。
中村一氏が、1590年に駿府城主となると、検地や街道整備などで活躍しました。
そして、豊臣秀吉の死後は、中村家の存続を願い、徳川家康に接近するよう進言し、駿府城下の村詮内膳屋敷にて、中村一氏と徳川家康の会談を実現させました。
中村一氏の亡きあとを継いだ中村一忠が米子城に入ると、横田村詮(横田宗昭)は6000石となり、徳川家康から後見を託されています。
横田村詮は、米子城の天守をもうひとつ建造したようで、吉川広家の四重天守の横に、独立式望楼型4重5階の天守を新たに設けました。
高さは約21mだったようで、明治11年に撮影された古い写真も残っているそうです。
一説によると、この新天守の姿は、大坂城を模した天守であったとも言います。
なお、吉川広家の四重天守もそのまま存在していたようで「四重櫓」と呼ばれたともあります。
その他、横田内膳村詮は、二の丸に御殿を築いて、藩主の住まいとした他、三の丸や内堀・外堀も整備したようですが、堀は水路の役目も果たせるような設計になっています。
また領内から移住させ、城下18町と呼ばれる町並みを完成させました。
しかし、どの家中でもそうなのですが、一部の重臣が権力を得ると、もめ事が発生します。
藩主・中村一忠の側近である、安井清一郎、天野宗杷らが横田内膳を亡き者にしようと計画します。
14歳の中村一忠は、甘言によって、米子城にて正室・浄明院との慶事が開催された際に、横田村詮(横田宗昭)を城内で暗殺させました。享年52。
これに反発した、横田一族の横田主馬助、客将・柳生宗章らは200にて、飯山(出丸)にて籠城しましたが、中村一忠は隣国・出雲の堀尾吉晴・堀尾忠氏に加勢を求めて鎮圧しています。
「横田騒動」「米子城騒動」とも呼ばれますが、横田一族は滅亡しています。
ちなみに、横田村詮の墓所は鳥取県米子市の妙興寺となります。
事件の報告を受けて怒ったのは徳川家康です。
横田村詮の殺害に激怒し、首謀者の安井清一郎を即刻切腹、天野宗杷は即刻打ち首、中村一忠側近の道上長衛門、道上長兵衛には、事件を阻止出来なかったのを理由に、江戸にて切腹させました。
一方、藩主・中村一忠に対して江戸幕府は、品川宿止めの謹慎に留め、お構いなしとしています。
その後、中村一忠は、1608年に松平姓を与えられていますが、叔父・横田村詮を殺害したことは、常に陰口を言われていたようで、慶長14年(1609年)5月11日に急死しています。
享年20。
なお、小姓の服部若狭邦友と垂井勘解由延正の2名が殉死しました。
中村家は表向き断絶しましたが、側室・梅里が男子を産んでおり、中村一清がのち鳥取藩主・池田光仲の家臣として150石になっています。
少し触れましたが、中村家のあと、米子城には一時、美濃・黒野城主の加藤貞泰が60000石で入りますが、1617年に大洲城に移動したため、伯耆・因幡の32万5000石は、鳥取藩・池田光政の所領となりました。
この時、米子城には家老の池田由成が城代として派遣されています。
その後、池田輝政と督姫の子孫となる池田光仲が鳥取藩の藩主となり、米子城には家老の荒尾成利が入っています。
以後、米子城は明治維新まで荒尾氏(米子荒尾家)の、荒尾成直、荒尾成重、荒尾成倫、荒尾成昭、荒尾成昌、荒尾成煕、荒尾成尚、荒尾成緒、荒尾成裕、荒尾成富が城代を務めました。
米子城へのアクセス
米子城への行き方ですが、JR米子駅から歩きますと、麓の登城口まで、距離1.1km、時間15分です。
麓の登城口から、本丸がある山頂までは約15分の登りとなりますが、公園として整備されており、トレッキングポールは不要です。
ただ、靴は転倒しないよう、スニーカー以上が良いかと存じます。
無料の駐車場は下記の地図ポイント地点が入口となり、近くに登り口もあります。
地図の縮尺は変えてご覧願います。
駐車場から本丸までも、約15分ほどの登りで、観光所要時間は約50分となります。
下記写真は飯山(飯山城・飯山砦)です。
飯山(飯山城・飯山砦)は、米子城の東にある独立峰で、戦国期には使われましたが、米子城が築城開始されてからは、出丸のような感じになっており、東の丸、または采女丸(うねめまる)と呼ばれたそうです。
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