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安中城
安中城(あんなかじょう)は、群馬県安中市安中にある平城(崖端城)です。
最初の築城は、1559年、安中忠政(安中越前守忠政)とされています。別名は扇城です。
安中忠政は松井田城を本拠地としましたが、嫡子・安中忠成が安中城を守備し、武田信玄の侵攻に備えました。
武田信玄が西上野への侵攻を開始すると、1564年、安中城主・安中忠成は武田家に降伏します。
しかし、父・安中忠政は松井田城にて強固に対抗しましたが力尽きて開城し、切腹の命を受けたか、自ら自刃したようで命を亡くしました。
ただし、子の安中忠成は所領安堵となり、安中城主として武田家に臣従し、安中景繁と改名しました。
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武田勝頼の代となり、1575年、長篠の戦いに安中一族も出陣しましたが、安中景繁ら一族はすべて討死したようで安中氏は事実上滅び、安中城は荒廃したと言います。
江戸時代に入ると、1614年に、井伊直勝が安中3万石として入封し、安中城を改修して居城と城下町を整備しました。
この井伊直勝は、関ヶ原の戦いのあと、佐和山城主となった井伊直政の長男です。
本来であれば彦根藩を継ぐ身でしたが、病弱などの理由から徳川家康の裁定により、彦根藩は弟・井伊直孝が継ぎ、井伊直勝には安中3万石が与えられたと言う恰好ですが、この話は末尾でも掲載致します。
現在の安中城は本丸跡が文化センターや小学校になっており、城の遺構としては跡地として伝わる案内くらいしか残っていません。
下記は安中藩の藩校「造士館」跡です。
同志社の創立者である新島襄も、藩校で学んだことでしょう。
下記は安政遠足の碑です。
安中体育館より南の道路脇にあります。
安政遠足(あんせいとおあし)と言うのは、幕末の安政2年(1855年)に、安中藩主・板倉勝明の発案で、藩士鍛錬のため、50歳以下の安中藩士96人が、安中城の門から碓氷峠の熊野権現神社まで「走った」ともされますが「競歩」のような競走との事です。
着順などの記録もあるようですが、順位やタイムを重要視したものではなく、体力増強が目的だったようです。
この安政遠足こそが、日本の「マラソン発祥」とされ、上記のように安中城址に「安中藩安政遠足の碑」と「日本マラソン発祥の地」の石碑が建立されています。
その意志は現在でも受け継がれており「安政遠足・侍マラソン」が毎年5月第2日曜日に開催されておりますが、仮装での出場が認められています。
安中の武家屋敷
あまり宣伝されていませんが、安中には立派な武家屋敷が保存されています。
安中市民の方は無料ですが、市外からだと有料拝観となります。
下記は郡奉行の屋敷です。
正式名称は「旧安中藩郡奉行役宅」です。
安中にゆかりもないのに移住されたと言うガイドさんより非常に詳しいご説明も賜りました。
まだガイドを始めて1年との事でしたが、本当に良くご存じで、ビックリ致しました。
さぞかしご勉強された事と存じます。
下記は武家長屋です。
長屋の使われ方としては、ご承知の通り、だいたい家来が住んだり、屋敷や城を警護する下級武士が寝泊まりする場所なのですが、安中の長屋は、それこそ本当に「長い」です。
8畳と10畳の部屋があり、その数は9部屋もあります。
これだけ大規模な武家長屋は、私の記憶にはありませんので、見学の価値あります。
旧安中藩郡奉行役宅の場所は下記の地図ポイント地点となります。
長屋はちょっと西側で徒歩1分で、長屋の脇には立派なトイレもあります。
駐車場はないので、図書館・体育館に止めさせて頂いて徒歩が無難です。
安中城としての遺構はあまりありませんが、武家屋敷や長屋はお勧めです。
また、近くに有名な「安中教会」もあります。ただし、平日は敷地内には入れません。
井伊直政の正室・唐梅院の墓
上野・安中城域からほど近い場所に大泉寺があります。
大泉寺の墓地には、井伊直政の正室・唐梅院の墓があります。
唐梅院は、初代・安中藩主である井伊直勝の生母となります。
徳川四天王のひとり、赤備えで知られる井伊直政には、正室(松平周防守安親の娘)との間に長男・井伊直継(のちに井伊直勝)、側室との間に生まれた二男・井伊直孝がいました。
井伊直政が関ヶ原の戦いの2年後に、戦傷がもとで亡くなると、井伊直勝が一旦、佐和山城から新築なった彦根城に当主として移りました。
しかし、井伊家中内部の対立や井伊直勝自身の病弱などもあって、徳川家康の命で大坂の陣には、弟・井伊直孝が出陣し武功を上げています。
事態を憂慮した徳川家康は、井伊直勝を井伊谷以来の家臣とともに、碓氷の関所を守る上野・安中藩3万石の初代藩主として分知させ、彦根藩30万石には武田の遺臣らを付した井伊直孝を藩主として定めました。
井伊直勝はその後、子の井伊直好に安中藩を譲り、井伊直好の転封に随って三河・掛川城で病没しています。
唐梅院は、ここ安中の地で病没したため、城下の大泉寺に葬られました。
二代目藩主・井伊直好の母・隆崇院も安中城で死去したため、同じ大泉寺の墓域に眠ります。
高さ3mほどの立派な五輪塔が現存します。
さて、大泉寺の場所ですが、下記の地図ポイント地点となります。
地図は例によって縮尺を変えてご覧願います。
安中城・八重が淵の碑
▼安中城址の「坂下門址」にある「八重の墓」慰霊碑。
水野氏藩政時代、藩主の寵愛を受けた奥女中(のち側室)のお八重が、正室らに妬まれて謀殺された悲劇の地の慰霊碑です。
藩主・水野元知(寛文四年・1664年就任)は、格上の大名水野忠善(岡崎藩主)から迎えた正室と仲が悪く、年中見下されていました。
居心地が悪く、参勤で江戸に出ても正室のいる上屋敷へは入らず、下屋敷で息を潜めることもしばしばの生活。
▼「江戸に戻ったのに挨拶が無いやんか!」(以下発言はイメージです。)
「正室をないがしろにしとるんか!」と怒りまくりの正室。
もう、怖くて上屋敷には行けない元知さま・・・もちろんそうなると仕事にも支障をきたすわけで、元知は鬱病を理由に幕府に届け出、そのまま、安中へと帰国しました。
またこれが奥さんの逆鱗に触れる事に・・・
「何、勝手に帰っとんねん!」
「帰ったら、また、あの八重とイチャつくんちゃうんかい!」
奥さんは手の者に探らせて、国元の奥女中八重の存在が、殿の気持ちを自分から遠ざけているんだと思い込んでいます。
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▼奥さんは国元の息のかかった御殿医らを手なずけ、一計を案じました。
八重は、殿様の膳に縫い針を仕込んだというえん罪(濡れ衣)を着せられ、処刑されることに。
刑がまた残虐。桶に入れられ安中城の坂下門から、城の直下の九十九(つくも)川の淵に放り込まれた。
ヘビやムカデなど大量の害虫を詰め込まれたいじめのような刑死だった。
(現在、安中市文化センター下の国道18号の信号あたりです。)
▼やがて傷心の元知は江戸に戻りますが、奥さんは元知を見るなり、
「わかってるやろ!」
と言いながら、懐に持っていた守り刀を抜き、元知に斬りかかったのです。
さすがに、元知はとっさに身をかわしますが、もみ合ううちにお互いがお互いを傷つけ、ともに重傷を負うという壮絶な夫婦ゲンカとなってしまいました。
▼「もはや耐えられない」と、元知は自害を図るのですが失敗します。
夫婦ゲンカで刃傷沙汰(しかも相手は格上の大名の娘)となったうえに、武士とあろう者が自害をしくじるとは。
とりつくろいようもなく、藩から「藩主の発狂」として幕府に届けだされます。
寛文七年(1667年)5月、領地没収の改易処分が申し渡され、元知の身柄は、信濃松本藩に預かりとなり、奥さんも実家に戻されます。
水野元知は唯一「改易になった安中藩主」として歴史に刻まれました。
奥方は輿入れの時から実家の権威をかさに着ていたようで、格下への縁組みが不満だったのでしょうか、高圧的な態度でしたのでしょう。
この事件については、
「寛政重修諸家譜」-「寛文七年元知狂気し白刃を振るって妻を傷つけ」
「徳川実記」-「発狂し妻に深手を負わせその身も自害せんとするも果たせず」
新井白石の「藩翰譜」でも記録しているので、当時は有名な事件として知られていたようです。
▼実行犯が医者だったため、後年「安中の医者は二代続かぬ」のは八重の祟りだという話になり、昭和初期になってから、八重の慰霊碑が、投げ込まれた渕の断崖上に立てられ供養されました。
その後も事故死など、付近で不可解な出来事が続き、夏のコワ~イ定番番組でよく「祟り」を紹介されていました。
安中・八重が淵の場所ですが、下記の地図ポイント地点となります。
上記の地図ですと、北側の道路沿いにあるような感じに受け取れると存じますが、その道路は崖下でして、崖上に八重が淵の碑があります。
そのため、南側のプール脇からあぜ道を入る感じとなりますので、念のため記載しておきます。
昔は崖下まで九十九川が迫っており「渦を巻いていた」と、柳生先生よりご説明も賜りました。
駐車場は隣の図書館などの駐車場を利用すると良いでしょう。
(このページの大部分寄稿は)柳生聡
・井伊直継-井伊直勝と井伊直孝~兄弟の数奇な運命
・新島襄 キリスト教教育に捧げた生涯
・下曽根信照・下曽根信正・下曽根信由と下曽根氏の墓がある信照寺
・菅沼定清と菅沼城~安中の海雲寺は招き猫の寺
・後閑氏の存亡と後閑信純とは~後閑城の訪問記
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