群馬県安中市簗瀬(やなせ)には、安中・八幡平陣城址と首塚があります。
▼永禄年間、武田信玄の西上野侵攻時にきずかれた武田信玄の陣城とも言われています。
箕輪城(みのわじょう・高崎市箕郷町)を中心に勢力を張る長野氏を攻略するため、その支城を治めていた松井田城主・安中忠政、安中城主・安中忠成の親子に、くさびを打ち込むと言う位置に築かれています。
1561年に、武田信玄が上野へ侵攻した際に、松井田城の安中忠政と、安中城の安中忠成を分断するために築いた陣城と言う事ですね。
▼研究者によると、遺構の範囲は、現在会社社宅となっている中高層アパートの一帯を中心に、東の簗瀬二子塚古墳を物見台となし、首実検した後の首を葬ったと思われる「首塚」周辺をも含むものといわれます。
下記は簗瀬八幡平首塚です。
▼周辺には長野氏方の小城砦が多く、これらを武田が攻略しながら、箕輪城の孤立化をはかったとも考えられています。
永禄6年、箕輪も落城し、武田の西上野平定が終わりました。
▼形状からもう少し古い時代の領主の屋敷跡にも思えますが、首塚との関連を考えると、武田信玄陣城説が説得力を持ってしまいます。
▼昭和になってから、150体分の頭蓋骨ばかりが古墳内から発見され、「将門首塚に次ぐ、関東2位の心霊スポット」なんて怖がられますが、この一帯は武田・上杉・北条など大勢力の侵略を受け続けた不運な山河なのです。
簗瀬八幡平首塚の場所は下記の地図ポイント地点となります。
(寄稿)柳生聡
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