長崎県

三城城 三城七騎籠による三城城の戦い

三城城

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三城城とは

三城城(さんじょうじょう)は標高38mの平山城で、比高は30mとなる。
別名は留松の城、大村城とも言い、長崎県大村市三城町にあります。
この地を治めていた大村純前は、大村館(乾馬場町付近)に居住していたが、戦国時代に入ると三城城を築き、1564年、キリシタン大名である大村純忠は三城城に移った。

今回、長崎空港へ戻る際に時間が余ったので立ち寄らせて頂いた。
三城城の西麓には「富松神社」があり、今回はその富松神社にも参拝させて頂いたので、参拝者用駐車場にクルマを止めた。
下記のポイント地点がその駐車場となる。

なお、駐車スペースとしては北から入れる二の丸(畑)の道路も駐車禁止にはなっていないようだが、農作業の邪魔にならないよう、ご配慮は願いたい。
二の丸には三城城の案内板があるらしいが、時間の関係で今回は断念している。

現在の本丸には1934年に建立された長崎県忠霊塔と霊苑がある。

三城城

また、北側には小さな神社「三城神社」があり、そこが三の丸になるようで、古井戸もあると言う。

さて、三城城は戦国時代の荒波の中、大村純忠の本拠地として守り抜かれた。

特に1572年7月には、内応者の手引きを受けた塚崎城主・後藤貴明平戸城主・松浦隆信高城城主・西郷純尭の1500からの急襲を受けて、三城城は危機的な状況となった。
不意を突かれて籠城した大村純忠は妻子を合わせても僅か70~80名しかいなかったようである。

朝長純盛と朝長純基が率いる手勢は14名で大手門を守らせ、今道純近には16名で搦手門、北の城と南の城の要所には宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱が僅かな手勢で固め、本丸は大村純忠と一門衆・大村純辰で13名と言う布陣だったと言う。

このようにかなり不利な状況では、家臣が敵に降伏・寝返る事も多々あるなか、この籠城に辛うじて加わっていた七騎の大村純盛、朝長純盛、朝長純基、今道純近、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱は、小人数ながらも三城城への侵入を試みる敵を果敢に撃退していた。
婦女子も石を投げて守っていたと言う。


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しかし、この絶望的な状況に際して、大村純忠は死の覚悟を決めて宮原常陸介らと最期の杯を交わしたとも言う。
そもそも、敵の後藤貴明は、三城城を守る大村純忠の養父・大村純前の長男であった。
しかし、母はどうも身分が高くない女性であったようで、後藤貴明は庶子であったことから、大村純忠は縁戚である日之江城主・有馬晴純の次男である大村純忠を養子に迎えたようだ。
そのため、長男でありながら他家に養子に出されたのが、後藤貴明と言う事になる。
納得いかない大村家の家臣は、当然、正当な跡継ぎは後藤貴明だとして、有馬家から来た大村純忠に味方しない者も多かったのだ。

そんな中、大村純忠が攻撃を受けたとの知らせを受けて物頭だった旧臣・富永又助が駆け付けた。
少数ゆえ、囲みを突破して入場するのは困難と判断し、西郷純尭の陣にて加勢したいと申し出ると、西郷勢の大将に深手を負わせて混乱させた隙に、十数人の手下と三城城に馳せ参じたと言う。
大村純忠はこの富永又助に深く感謝し、富永忠重と名乗らせた。
また、この騒ぎに乗じて長岡左近、朝長壱岐らも三城城に駆けつけ、内応していた者らも、改めて大村家に帰順したと言う。
そして、不利を悟った後藤貴明らは撤退した。

この三城城の戦いの七騎である大村純盛、朝長純盛、朝長純基、今道純近、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱は「三城七騎籠」(さんじょうななきごもり)と呼ばれ、この勝利を機に大村家の家臣団は結束が固くなったのである。


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そして、あとを継いだ大村喜前玖島城を築城するまで、大村家の本拠地は三城城であった。
また、大村家は明治維新を迎えるまで、この大村から領地替えされることが無かったのも稀であろう。

大村・富松神社

「とんまつさん」として大村の皆様に親しまれているのが富松神社です。
神紋は大村藩の五木瓜紋(いつもっこもん)になっています。

大村・富松神社

南北朝時代の1364年には既にあったようですが、九条家との係わりから富松神社が創始された模様です。
尼崎市にある富松城跡・富松神社(とまつじんじゃ)とも縁がありそうです。
本堂前にある松の大木には、ある夜に不思議な火が飛んできて、辺り地面を照らしたと言う伝説があります。

大村・富松神社

しかし、三城城に入った大村純忠自身がキリシタンになったこともあり、1574年には地元の切支丹により富松神社は焼かれてしまったようです。
その後、キリスト教が禁止されると、全国に先駆けてキリスト教を禁止した大村藩でしたので、大村喜前が富松神社を再興させました。
下記のような古い墓標もあります。

富松神社

境内社の市杵島神社(下記)は、長崎空港がある箕島(みしま)に鎮座していたそうです。
空港建設の際に、箕島の住民は移住させられたため、富松神社に遷座されたとの事です。

市杵島神社

富松神社の北から本丸へ登っているルートが大手(トップの写真)であったと考えられています。

本経寺

三城城からもほど近い、本経寺(ほんきょうじ)には、大村藩主である大村家墓所があります。

本経寺

大村家墓所は2万7000石の小藩としては異例の大きさとの事です。

大村家墓所

本経寺にも参拝者用駐車場があります。

以上、大村の三城城などでしたが、三城城は国指定史跡に認定してもらおうと言う動きもあるようです。
国指定になると整備も進められますので、歓迎ですね。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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